2014年1月31日
大黒屋光太夫と『シベリア大紀行』 京極浩史
露寇事件を読んでいると大黒屋光太夫が出て来るが、井上靖に『おろしゃ国醉夢譚』という作品がある。大黒屋光太夫の足跡を丁寧に辿ったもので、光太夫の帰国後の処遇については最近の研究結果と違う点もあるようだが、大筋は1782年、船頭光太夫が乗った神昌丸は紀州藩産米を積んで伊勢から江戸へ向かう途中暴風雨で遭難、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。光太夫等は4年後島からの脱出に成功し、カムチャッカ、オホーツク、イルクーツクなどを経て、サンクトペテルブルクでエカテリーナ二世に謁見、帰国を許されて遣日使節ラックスマンに伴われ漂流から約十年で根室に上陸、帰国した。帰国を果したのは16名中3名であった。
1985年東京放送が開局30周年記念に「シベリア大紀行―『おろしゃ国醉夢譚』の世界をゆく」という番組を制作した。当時78才の井上靖ご本人も夫人とともに旅に参加し、レポーターには椎名誠を起用、通訳は米原万里という顔ぶれで確かその年の何かの賞を取った筈である。この番組制作にプロデューサーとして携わったのが星見利夫君である。
実はこの1985年という年は我々日比谷高校昭和32年卒の同期会が初めて開催された年である。その3年前、卒業30年記念に如蘭会大会の日に集まるよう会報で呼び掛け、会場として教室を用意したところ20〜30人の参加があり、星見君も出席して司会をして呉れた。そしてこんな呼び掛けでも集まれるのだから本格的な準備をすれば同期会が開けるのではないかと云うことになり、三年後の5月に新宿の京王プラザホテルで第1回の同期会が盛大に開かれた。この同期会の準備に並々ならぬ情熱を注いだのが星見君であった。丁度番組制作の最中で多忙だったにも拘らず何度も私の勤務先まで来て呉れたこともあった。同期会のあと夏のシベリアに取材で滞在中、歯痛を発症して途中帰国したがこれが上顎癌と分り、9月頃に医科歯科大病院に入院して手術した。大分経ってから見舞いに行ったが、顔面を大きく切除し、発声が不自由にはなったが一応話はできた。「ボク、きっとよくなるよね」と云った言葉が忘れられない。番組は5時間にわたる大作で12月12、13日の二回にわたって放映され好評であった。
それから一月たたない1月に星見君は急逝した。米國出張中で葬儀には参列できなかったが、シベリア取材班の仲間が棺を担ぎ、井上靖は『北斗闌干』という言葉を贈った。これが墓碑銘に刻まれているそうである。
その後、同期会はやむを得ず私が引き継いで細々と続けられた。余り熱心にやると早死にする様な気がしたので手抜きで労力を使わずに続けた。その内に協力してくれる仲間も増えて何とかなるようになり、2007年には世話人代表の役も引き継いで貰って今日に至っている。大黒屋光太夫で思い出した星見君がこの同期会の基礎をつくったことを改めて書き留めて置くために一文を草した。
なお、この番組に関する書物として
『マイナス50℃の世界−寒極の生活』(米原万里、現代書館)
『シベリア大紀行』(TBS特別取材班、河出書房新社)
『シベリア追跡』(椎名誠、小学館)
が刊行されている。
京極浩史