2014年2月12日
露寇(ろこう)事件始末(5-1) 荻野鐵人
7 樺太攻撃
十二年前に、シベリア総督の使節アダム・ラックスマンが箱館にきたとき、時の老中松平定信は目付石川忠房らを箱館に派遺し、ラックスマンの当面の要望はしりぞけつつも、態度はやわらかく、
「ぜひとも通商をしたいというのなら、こんどは長崎に来よ。それについては信牌(長崎港の入港許可証)をあたえる」
としてそれを渡し、アダム・ラックスマンを喜ばせた。
このたび1804年7月、レザノフが来航したのは、その信牌があったためである。
信牌などというものは幕府の慣習には、もともとない。そういう日本語すら、それ以前になく、それ以後にもない。
松平定信がアダム・ラックスマンに与えたきりで、実体もろとも言葉も消えた。
つまりは松平定信という人物の高度な政治判断の所産であった。
かれは、日本がいかに鎖国を厳格にしても、日本列島の政治地理の上で、北東端と南西端で密貿易が可能なことを知っており、現にそれがおこなわれ、幕府の能力では手のうちようもないことも知っていた。
北の千島において対露密貿易がおこなわれ、南の琉球において薩摩藩がひそかに清国と密貿易をしている。
薩摩藩は雄藩であるため幕府としては御し難いが、北方は、もしこれを公認しロシアと正規に通商すれば、幕府が儲かるのである。
松平定信にはロシアとの通商の気持があった。が、幕府は、かっての田沼意次や松平定信といった強力な政治家の時代が去っている。
レザノフが来航した時の幕政の老中首座は、戸田采女正氏教(美濃大垣十万石)というごく平凡な人物であり、開くにせよ鎖しつづけるにせよ、国家の大計から考えるということはなく、事がなければそれでよかった。
クルウゼンシュテルンは、半年も長崎湾の水の上に浮かばされているあいだに、水面から地形地物をつぶさに見た。
長崎は天然の良港として、みごとな湾入であるとは思ったが、日本における唯一の対外的な開口部でありながら、有効な防禦がすこしもほどこされていないことに驚いた。
「もし一隻のフリゲート艦が、二、三の焼打用の舟をひきいてここに侵入すれば、ほんのわずかな時間で焼きはらってしまうことができるだろう」と、述べている。
フリゲート艦とは艦隊や船団を護衛する快速艦のことである。この時代、この艦種は大砲を二十門から五十門ぐらいを載せていた。
ナデジダ号の艦長であるクルウゼンシュテルンが帰国後、三年にわたる困難な航海について書いた本は、1813年に出版されクルウゼンシュテルンの『世界周航記』と呼ばれるが、1823年にシーボルトがオランダ商館の医官として赴任し二六年に江戸に参府したとき『世界周航記』のオランダ語版を持参した。
高橋景保はこれをほしがり、かわりに伊能忠敬や間宮林蔵の測量を基礎とする日本地図や間宮の『東韃(とうだつ)紀行』を贈った。
景保はのちに逮捕され牢死する。密訴したのは間宮である。
この日本語訳が『奉使日本紀行』で、これにはフリゲート艦をフレカットと表記してある。
「若一のフレカットに二三の焼打舶を具したならば、日本人力を尽し防ぐにあらざれば、暫時の内に此所をば焼亡すべし」とある。