2014年2月13日
露寇(ろこう)事件始末(5-2) 荻野鐵人
1805年3月長崎を出航したクルウゼンシュテルンとレザノフは、太平洋を北上し、太陽暦五月一日、男鹿半島(ロシア人の岬と命名す)沖を通過し、宗谷海峡を経て樺太に向かい、樺太南部の亜庭(あにわ)湾に入った。
朝九時、ナデジダ号が、広大な亜庭湾口に入ったとき、艦の西に一団の岩礁が横たわっていた。
用心ぶかくその傍を2マイル半離れて帆走した。
水深も測った。25尋(ひろ)で、底は礫をふくむ岩盤であった。
岩礁の上には、おびただしい数のセイウチがむれて、咆哮していた。
五月半ばというのに山々にはまだ雪が残り、風は冷たかった。
融雪期の最後でありつつも新緑のはじまりで、さまざまな渡り鳥、とくに白鳥の群れが河口の景色を白くしてしまうほどであった。
どのようにして湾奥に入り、どこに碇をおろせばよいか?
たまたまこの朝、一艘の日本の船を見つけた。日本の船であることは、一本のマストに巨大な一枚帆を張っていることでもわかる。
日本側の資料では兵庫の商人である柴屋長太夫の持船で伊勢丸といい、蝦夷地の野寒(ノシャップ)岬で鰊(にしん)を購入し、柴屋の請負場所である亜庭湾に向かっていた。文化二年(1805)四月十六日のことである。
クルウゼンシュテルンは、この船についていくことにした。
450トンのナデジダ号に追跡された伊勢丸はトン数でいえば100トンにも満たず、乗員は生きた心地もしなかったであろう。
伊勢丸は、力のかぎり操船して、ついにナデジダ号をふりきり、九春古丹(クシュンコタン)(日本表記:楠渓)という開拓地に逃げ込んだ。
クルウゼンシュテルンがそれ以上しつこく追わなかったのは、目の前に湾が開けてきて、その陸地にいくつかの日本式の建物があるだけでなく、べつの日本の船が碇を下ろしているのを見たからである。
日本人が留多加(ルウタカ)(同名の川の河口左岸)と呼んでいる交易場所であった。
日本の船は伊勢丸と同じく、兵庫の柴屋長太夫の持船の祥瑞丸であった。
夜が明け、やがて十時になったころ、クルウゼンシュテルンは使節レザノフとともに、祥瑞丸をたずねるべくボートに乗った。