2014年2月17日
露寇(ろこう)事件始末(5-3) 荻野鐵人
ときの箱館奉行羽太正養(はぶとまさやす)は退職後『休明光記』に、ロシア人たちが乗ってきた艀舟(はしけ)だけで、日本の四百石積みの大船ほどもあったという。
おそらく、実体よりも、多分に心理的に祥瑞丸の水主たちには大きく見えたのであろう。
クルウゼンシュテルンの記述では甚だ鄭重に迎えられ、saky(酒)、米の麺麹(パン…餅であろう)、および煙草をもてなされたという。
レザノフとクルウゼンシュテルンの目的は、この日本の船乗りと接触することによって、サハリンはどういう土地か、日本との関係の現状がどうなっているか、ということを聞きたかったのであろう。
レザノフも出発にあたって商務大臣ルミアンツェフの訓令のなかに樺太調査の一項が加えられているのである。
「サハリン島の原住民は何種族か。かれらは、日本に属するか、シナに属するか。今後、いかなる手段によってサハリンとの交易を開始すべきか」
ということで、高官であるレザノフ自身が、気軽に、日本の北前船に出向いたのも、このためである。
日本側の記録では、ロシア人は六人である。
そのうち五人は紺ラシャの服を着て、気品もある。服装からみて、高等官ということである。
六人のうち一人だけ、緋のラシャを着ている。
その緋ラシャの男が日本の通詞であった。
祥瑞丸の船頭らから樺太における交易の実態と、それに対する日本政府の方針、態度について聞き出したあと、クルウゼンシュテルンは、留多加に本艦を留めたまま、さらに調査のために一隻の短艇を出した。
調査隊は武装力において日本側よりはるかに優れていたために、許可も得ずに上陸し、日本人によって山下町とよばれたところの倉庫を検分した。どの倉庫も、魚と米と塩で満たされていた。
この地の番人がいた。その番人のまわりに二十人の日本人と、五十人以上のアイヌが集まっていた。