2014年2月19日
露寇(ろこう)事件始末(5-5) 荻野鐵人
一方、幕府もレザノフらの樺太調査の報告に接するや、多少なりとも薄気味悪くなったのか、この年の文化二年閏八月、遠山金四郎景晋(かげみち)と勘定吟味役村垣左太夫定行に江戸を出発させた。かれらは松前で越年し、翌文化三年三月に西蝦夷を最上徳内を案内役にたて宗谷に向かい、五月には宗谷に達した。
遠山、村垣らの報告と箱館奉行羽太正養(はぶとまさやす)の主張により文化四年(1807)三月には、西蝦夷地も幕府から直轄され、全蝦夷地『国後(クナシリ)、択捉(エオロフ)両島、樺太南部を含む』を幕府直轄地とし、奉行所も箱館から松前へ移し、松前奉行と改称するに至った。
レザノフらが去ったあと、文化三年と文化四年のロシア軍艦による日本の出先番所や日本廻船への襲撃を、幕府はある程度予想していたらしい。
文化三年正月二十六日には沿海諸大名に対しすでに「魯西亜船扱ひの触(ふれ)」を出し『通航一覧』、彼らは漂流に事寄せて再渡しないとも限らぬ、これに対し慎重に丁寧に扱い再応申諭し帰帆させるがよい。若しそれでも応ぜずに「相拒み、不致帰帆及異議候はば、時宜に応じ、不及伺、打払う」ことを通告せよとある。すなわち万が一の場合には断乎たる独断専行の処置も止むなしとの強い指示であった。
文化三年四月老中戸田氏教が辞任、五月、松平信明が老中首座に復職したのは、蝦夷地対策の強化を意図したものであろう。
ペトロパヴロフスクで、レザノフら遣日使節団の一行が下船したのち、クルウゼンシュテルンのナデジダ号は、1806年(文化三年)10月9日、樺太東海岸の再調査に出帆し、島であることを確認できずに終わった後、本来の世界一周航海を再開のため、マカオを目指した。
当時、樺太が独立した島か、大陸から張り出した半島なのかが、ヨーロッパ人には知られていなかった。
二年後の文化五年(1808年)に間宮林蔵が陸路による樺太探検を決行し、樺太が狭い水道で大陸から分けられている島であることを確認することになる。これは、1849年ロシアの探検家ゲンナージ・ネヴェリスコイが同一の発見を行うに先立つこと42年前のことだった。