2014年2月20日
露寇(ろこう)事件始末(5-6) 荻野鐵人
1806年(文化三年)11月20日、クルウゼンシュテルンのナデジダ号はマカオに到着した。2週間後には北方植民地産の毛皮を満載した僚船ネヴァ号もマカオに着した。
ところが、清国の広東総督は、ロシア船二艘の広東入港は許したが、毛皮交易については、中国商人に取引を禁じることで、事実上の拒絶的措置を取った。
しかも、北京にある皇帝の指示を仰がねばならないとして、ロシア船の抑留を通告した。
だがこの抑留通告だけは、クルウゼンシュテルンが個人的面識をもっていた英国商館長ドラモンドの尽力により、なんとか解除にこぎつけた。
難行した毛皮の取引は、最終的には、英国商館長の手配でできることはできたが、荷捌きを急ぐ窮状を察知する中国商人に足元をみられ、毛皮はさんざんに買い叩かれるという有様だった。
広東の毛皮貿易を独占する英米商人が、露米会社という強力なライバルの参入を黙許するはずもなく、外交的術策に長けたイギリス当局に、いとも巧妙にあしらわれたようだ。
レザノフによる日本との通商交渉も、クルウゼンシュテルンの関東貿易交渉も、オランダあるいはイギリス、アメリカなどによって挫折したのである。
他方、1805年6月14日(文化二年五月十七日)、ペトロパヴロフスクでクルウゼンシュテルンと別れたレザノフは露米会社のマリヤ・マクダリナ号で、北方植民地アメリカ(アラスカ)の視察に旅立った。クルウゼンシュテルンのナデジダ号よりも先の出帆である。
このとき、ニコライ・フヴォストフ(Nikolai Aleksandrovich Khvostov)とガヴリイル・ダヴイドフ(Gavriil Ivanovich Davydov)、それに通訳のラングスドルフも同行させることになった。
七月十四日、アリューシャン列島に沿いつつ進んだマリヤ・マクダリナ号は、アラスカに近いウナラシュカ島に着き、この島よりレザノフは、ペテルブルグのアレクサンドルー世に、日本攻撃の裁可を願う上奏文を送った。
「明年、日本沿岸に赴き、松前にある日本人部落を破壊し、かれらをサハリーンから駆逐します。武装船が海岸沿いに活動して日本人に恐怖をまき散らすことによって、かれらが漁業に従事できないようにします。それによって二十万人にちかい日本人が生計の道を失うでしょう。そのようにすれば、日本人たちは我々と通商を結ばざるを得なくなることは必至のことであり、自分の独断による日本攻撃が日本を開国させ、ロシアに利益を与える以上、陛下が私を犯罪者として処罰されるとは思われません」
「長崎における日本の無礼な拒絶は、武力行使をする上でよい口実になります」