2014年2月21日
露寇(ろこう)事件始末(5-7) 荻野鐵人
レザノフに、日本への強硬手段を決意させたのは、一つには、航海中にいやでも直視せざるを得なかった北方植民地の逼迫(ひっぱく)した状況があった。
食料や日用物資の恒常的欠乏、労働力不足も深刻であった。
米英の毛皮会社の進出を防ぐ目的で、シトハまで領属地を拡大したことも、補給船の確保がままならない現状では、植民地全体の持久力を低下させる恐れがあった。
同年八月下旬、マリヤ・マクダリナ号はノヴォアルハンゲリスク(シトハ)に到着した。
レザノフは、シトハに入港した二隻の米国商船を積荷ごと購入した。
日本の北方地域を襲うことになるフレガート艦(木造三本マストの快速帆船)ユノナ号(the Iunona)とテーンデル船(石炭・水・食糧などの補給にあたる雑役船)アヴォス号(the Avos)がこうして準備された。
その後、レザノフは当時スペイン領であったカリフォルニアに行き、翌1806年の夏にノヴォアルハンゲリスクに戻ったときには、日本膚懲(ようちょう)の上奏文に対するロシア皇帝アレクサンドルー世からの返書が届いているものと信じていた。
しかし、届いていなかった。
ときにヨーロッパはナポレオンによって掻き回されており、ロシアはこれより前に交戦状態に入っていて、長崎で失敗した外交使節が出した上奏文など、皇帝も内閣も検討しているゆとりなどなかったのである。
それまで各地をとびまわって昂揚しきっていたレザノフは、このとき以後、気分が落ち込んでしまった。
ノヴォアルハンゲリスクの現地総支配人バラノフも日本への攻撃には二の足を踏み、次ぎのような反対の意見を述べていた。
露米会社の現下の手薄な陣営から、相当数の兵員をさくことは、植民地経営に支障をきたしかねない。
奇襲攻撃は可能だとしても、持続的制圧など、とても望めない。
むろん日本に勝つと言う点では自信があるが、官僚として、皇帝に対する罪人にだけはなりたくなくなってきたレザノフは、首府ペテルブルグでの政治工作の必要を痛感し、航海中の八月八日、日本遠征の総指揮をフヴォストフに委ねて、自身はオホーツク港に直航し、以後、陸路、首府に急行することにした。