2014年2月23日
露寇(ろこう)事件始末(5-8) 荻野鐵人
レザノフのフヴォストフへの命令は、次ぎの如きものであった。
1.アニワ湾の日本船を全滅し、強健な日本人を捕虜とし、病弱者は松前で釈放し、ロシア領であるサハリーンへの日本船の来航を禁止するが、通商のための来航は歓迎する旨を、日本側に伝えさせる。
2.捕虜、とくに技術者や熟練工を捕らえるように努めよ。
3.サハリーンの日本人店舗を破壊しできるだけ多くの商品を没収し、サハリーン人(アイヌなどの原住民)を撫育し、ロシア皇帝の庇護の下に安居楽業させよ。
4.全乗組員から遠征の目的について秘密を厳守し、一切口外しないよう誓約書をとっておくこと。
ところが、その後になって、健康状態の悪化がレザノフを弱気にさせたのか、首府への出立を前にした同年九月二十四日(陰暦八月十三日)、フヴォストフに日本攻撃中止を指示した追加条項を記した新指令を出している。
しかし、断乎たる中止命令ではない。
しかもレザノフが、駅馬を駆って冬のシベリアの雪を冒して進むうちに、アルダン川の河畔で倒れ、中央アジアのクラスノヤルスクで1807年3月13日(文化四年二月五日)、皇帝にも会わずして四十三歳で没したこともあって、新指令の真意は歴史の闇に封じられたが、サハリーン攻撃はフヴォストフ自身の突出した暴挙だったと思われる。青年将校の勇み足はどこの国でもあると見える。
1806年10月10日(日本暦:文化三年九月十一日)、海軍大尉フヴォストフ指揮のフレガート艦ユノナ号は樺太の亜庭湾頭オフイトマリを砲撃し、近在のアイヌ小屋に入り、長老に対し、ロシアに服属しているという旨のメダルをあたえ、「ロシア領」であることをロシア文字で彫字した銅版を焼け残った弁天神社の鳥居の柱に打ちつけて去った。
文化八年になって解読されたこのロシア文は、
「1806年1月10/23日、海軍大尉フヴォストフ指揮の下にフレガート・ユノナ号は、サハリーン島ならびに同島住民等のロシア皇帝アレクサンドルー世の庇護下に服属せる証として、亜庭湾西岸に位置する一村落のアイヌの長老にウラジミール綬銀褒章を授与せり。これより来航の一切の船舶は、ロシア船たると外国船たるとを問わず、右長老を遇するに、ロシア臣籍をもってされんことを請う」