2014年2月24日
露寇(ろこう)事件始末(5-9) 荻野鐵人
翌十一日朝八時ごろ亜庭(あにわ)湾のなかでは比較的人家の多い九春古丹(クシュンコタン)の沖に投錨し、ボートをもって上陸した武装隊の人数は、
「凡(およそ)八十人程」
と、箱館奉行羽太安芸守正養の上申書にはある。
その連中の人体(にんてい)については
「丈高く髪赤く」
と、同書にいう。
かれらは官設の機関である運上屋に鉄砲をうちかけ、そこにいた番人五郎、酉蔵、福松、源七の四人を捕虜にした。
ついで、かれらは放火した。燃え落ちたのは、運上屋一棟、板蔵三棟、茅蔵(かやぐら)六棟、弁天社、ほかに大小の船九艘などで、そのあと、ロシア領であることを後の証しにする銅版を付近の杭に打ちつけた。
さらに、食糧その他を奪った。うち米が六百俵もある。
これを第一次狼籍(ろうぜき)とすれば、翌年六月五日までのあいだに、千島をふくめ、襲撃・掠奪が十数度におよんだ。
上陸して施設があるとみれば焼き、食糧はすべて奪い、壮健な者を捕虜とした。捕虜は計十人ですべて日本人である。
さらにかれらは、いわゆる千石船の松前城下の商船宜幸(ぎこう)丸、松前藩船禎祥(ていしょう)丸、また官船万春丸を襲い、積荷をうばった。
しかし、十一月下旬以降は真冬に入り交通の途絶する宗谷海峡であり、しかも番人はことごとく捕らえられ、船はすべて焼き棄てられていたので、この第一次狼籍が松前に伝わったのは、翌年の文化四年四月になってからのことだった。
文化四年三月四日、宗谷を出立した松前藩士柴田角兵衛は、樺太の白主(シラヌシ)に上陸して初めてこの変を聞き、西ショウニまで急ぎ赴き事件を詳細に調べ、三月二十四日宗谷帰着し、直ちに早飛脚を松前へ急がせ、その報告が届いたのは四月六日夕六ツ時であった。
松前ではそれを七日付けに書き直して箱館奉行所に訴え出たのは四月十日、かくて四月十一日付けで箱館奉行所から昼夜を問わずの早馬注進の特急飛脚が江戸へ飛び、通常四十日ないし四十五日、急いでも二十日を要するところをわずか十日の、四月二十一ないし二十二日に第一報が江戸に着いた。
まさに赤穂浪士の早籠なみである。
その後も、江戸へ注進が頻繁に飛び入り、ロシア人五百人ほどで襲ったとか、運上屋は発砲され、米三百俵・酒などを奪取され、運上屋板蔵など十一棟、そのほか弁天社・綱・図合船などが焼き払われ、番人四人は捕らえられたという状況などが具体的となった。