2014年2月25日
露寇(ろこう)事件始末(5-10) 荻野鐵人
この時期には、択捉島の中心は、内保から島北の紗那に移っている。
幕府はこの紗那に、島内の諸会所の元締である会所元を置き、正規の長官は不在で、その下僚である幕吏ふたり(箱館奉行調役下元締戸田又太夫とその下僚関谷茂八郎)がこの地での責任をもっていた。
両人の下には、番士の士卒、医師、それに漁業と交易の実務を見る支配人、張役、番人がおり、また官船の船頭、水主(かこ)、船大工など多数の者が働いていた。
この島には蝦夷びとが多く集まっていた。千百十八人という人数が島内十七ヵ所以上の漁場で働き、これを統轄する惣乙名が、紗那にいる。
紗那には軍隊も駐屯していた。
津軽藩と南部藩の藩兵である。
以上をすべてふくめると、和人だけで三百人は越えていたであろう。
紗那には建物も多かった。
もっとも目立つものは「会所元」とよばれる役所であり、構内には役宅もあれば小物の住む長屋もある。
それに倉庫の棟数も多かった。さらには、津軽・南部の藩兵が起居する勤番所もあり。それら数十棟がかたまっている景観は、
「城の如し」と書いている記録もある。
この時期、紗那に、たまたま間宮林蔵が勤務していた。
かれは幕府の小吏としてこの前年から、択捉島の新道の開墾工事に従事していたのである。
幕府が蜂の巣を突ついたようになっている文化四年(1807)の四月二十四日、フヴォストフ大尉の指揮する武装船二隻が、突如内保の沖にあらわれ、上陸して運上屋、番所を襲い、番人など数人を捕虜にし、建物はすべて焼いた。強制連行された者は、五郎次、左兵衛、長内、六蔵、三助である。
この報が、紗那に入ったのは、三日後の二十七日夜である。
「いずれ、この紗那にあらわれるだろう」
ということは、たれもが推測できた。そのときどうすべきかという軍議が、二十八日に開かれた。
四月二十八日の軍議は、ごく低調なものであったらしい。
「籠城」
ということに、方針が決まった。
幕吏戸田又太夫と関谷茂八郎がごく消極的な性格だったということもあり、さらには、たがいに攻伐しあっているこの時代のヨーロッパとはちがい、日本は島原ノ乱(1637年)以来、戦いのたねが尽き、百七十年も平和がつづいている。
徳川幕府の方針は大坂ノ乱の終熄(1615年)のあと、しきりにとなえられた偃武(えんぶ)ということであり、以来、前記島原一揆のほかは武がまったく偃(や)んだ。
このため、津軽藩、南部藩の代表者も、できれば交戦を避けたかった。
「籠城し、敵が近づいてくれば、できるだけひきつけておいて鉄砲を放つ」
という方針に決まったとき、ただ一人、雇医師の久保田見達のみが反対し、
「敵を見て一戦もせずに最初から籠城するなど、いまだ聞いた事がありませぬ。進んで敵を撃ち払うべきです」
と、積極戦法を主張した。