2014年2月26日
露寇(ろこう)事件始末(5-11) 荻野鐵人
かれは、元来、武人であった。備中松山藩士で、好んで武術をおさめ、兵学を学んだが、そういう性行のためか事故をおこし、主家を去って浪人するというはめになった。医術は、かれにとって世過ぎのたねにすぎず、わざわざこの北涯の地を志願したのもかれの多血な性格によるものだったのであろう。
この軍議の席に、間宮林蔵もいた。
林蔵は常陸の貧農の子ながら、そういう豪邁さにおいては当代の奇傑というべき男だけに、かねがね久保田見達とは気分が適った。かれもまた見達と同意見だったが、身分が卑いために軍議の席で公然と意見を述べることができない。
見達の場合、身分は浪人である。箱館奉行所に医師として雇われているという軽い立場であるため、かえって参考意見を述べやすかったのであろう。
結局、容れられず、腹をたてていると、林蔵に、
「腹をたてるだけむだです」
と、たしなめられた。
二十九日朝、二隻のロシア船が沖合に現れた。
それぞれ三本マストに十四、五枚の帆をあげ、旗などをおびただしくひるがえし、「見事なる事なり」と、津軽藩の記録にある。
やがてかれらは二隻のボートをおろした。
一隻には大砲を載せ、三人ほどが漕いでいる。
ロシアの上陸部隊というのはそれだけであった。それに対し、日本側は三百人ほども籠城し、浜に寄せてくる二隻のボートに対し、手をつかねて見ているだけであった。
林蔵がひとり浜を駈け、やがて会所前にもどり、軍師格の南部藩大砲役大村治五平をつかまえ、
「如何成され候や(なぜ戦わぬか)」
と狂気のごとく叫んだ(『北地日記』)というが、大村は玄関の式台にすわったまま動こうとしなかった。