2014年2月27日
露寇(ろこう)事件始末(5-12) 荻野鐵人
南部藩大砲役大村治五平という人物は、泰平の世の象徴的な存在だったろう。
かれは、戦国以来の旧式の煙硝調合や射撃法ながら、火術にあかるかった。
その上、北条流その他古い流儀の兵法書などを読み、多少の法螺(ほら)をまぜて合戦ばなしをするのが得意だったかと思える。
指揮権をもつ二人の幕臣は、平素、大村の素養に感心して、万が一、異船が来寇したときは貴殿を軍師にするぞ、などとおだてていたかもしれない。
大村は突如降ってわいた合戦に、気も動転していたのであろう。しかし、懸命に鷹揚(おうよう)をよそおい、大玄関にすわったまま、「軍師」としての体面をたもっていたのであろうか。
「なぜ攻撃せぬか」
と、間宮林蔵が発狂したように大村に噛みついても、微笑をうかべ、いかにも勝算は胸中にある、といった態度をとった。たまりかねた林蔵が、
「この上は、このていたらくを御老中に申しあげたてまつる」
と、おどしたが、かるく微笑をもってむくいただけであった。
大村にすれば、たかをくくっていたはずであった。
(いかなる国であろうとも、無法にいくさを仕掛けてくるはずがない)
戦法にはかならず要求があるであろう。まず外交交渉をもって先方に要求を述べさせ、双方談合と曲折を経たのち、しかるべき絵を描こうとおもっていた。まさか、フヴォストフ大尉が、ただ劫掠のみを目的としているとは、大村には見抜けなかったのである。
この紗那の会所の支配人は川口陽助という者だった。かれは町人あがりながら足軽身分をもち、大小を帯びている。二人の幕臣は、この陽助を軍師にした。
陽助は渚にむかった。
が、すでに上陸しているロシア側は、問答無用とばかりに、発砲した。たちまち陽助は股を射抜かれて倒れ、供の者にかかえられて会所にひきあげた。
ロシア側は、海岸の魚粕倉庫を占領し、そこから会所にむけて大砲、小銃を射ちかけた。
大村は目算がはずれ、真っ青になった。
(この上は、山へ逃げよう)
と思ったらしく、射撃指揮もなにもしなかった。銃をもつ者が、てんでに発砲するだけで、応戦といえるようなものではなかった。
結局、大村は単身、会所をぬけだし、山中にかくれてしまった。のち、かれはロシア側の捕虜になった。
二人の幕臣は、途方にくれた。