2014年2月28日
露寇(ろこう)事件始末(5-13) 荻野鐵人
そのうち、ロシア側のただ一門の揚陸砲が、会所の表門や玄関を砕いた。
津軽藩はよほどあわてたらしく、みずから陣屋に火を放って焼いた。
やがてロシアの上陸兵は、いったん母船にひきあげた。
夜に入って、二人の幕臣は紗那の会所の備品、物資のすべてを捨て、全員山中に退却することをきめた。以後、一同、暗夜ながら、道を手足でさぐりつつ後退するのだが、途中、筆頭の戸田又太夫は責任を感じ、山中で自害してしまった。
あとで、箱館奉行羽太安芸守が江戸への上申書のなかで、敵の人数を、
「凡七百人程有之」
などと書き「此方小人数を以て取合候」などのべているが、実情は逆であった。ロシア側の上陸兵は、せいぜい十数人ほどにすぎなかった。
日本側は三百人のうち戦闘員は二百人はいたから、いかに武器が旧式で火薬も不足していたとはいえ、人数からいえば不思議なほどの敗戦であった。
主因は、揚陸された一門の大砲の威力に驚いたことである。次いで、日本側は、戦うすべを知らなかった。
日本側の応戦では、間宮林蔵の奮戦ということは、見ておいてやるべきだろう。かれには指揮権はなかったが、一棟の土蔵の中に籠っている数人を督励して射撃をつづけさせ、退却命令も知らなかった。
退却にあたって、幕臣の戸田、関谷が、間宮がいないことに気づき、やがて人をやって命令をつたえたところ、戸田のもとにやってきて、
「おあずかりなされている会所・陣屋から退くなどということがあってよいことでございますか」
と、いったんは厭味を言い、次いで懐中から一通の書類をとりだし、
「このようなこともあろうかと思い、あらかじめ書いておきました。ここに御印形を捺されたい。さもなければ、それがしは退きませぬ」
といった。書類には林蔵自身の手で、戸田、関谷の命令で退却した、決して林蔵の臆病のためではない、という旨のことが書かれている。
戸田、関谷もこまり、たまたまそばに蝦夷びとの乙名がいたので、
「ここに乙名もいる。捺印せずとも、のちのち証人になってくれるだろう」
といって、退却に同意させた。
林蔵の言動にはつねにこの種のあくの強さがあった。
翌朝、ロシア兵が上陸すると日本側の施設にはひとりの人影もなかった。
物資は、拾いものと言うに近かった。
ユノナ号に運んだだけで、酒が六十樽、米が三十俵、具足五、六十領、弓十張、槍二十筋、五百五十目玉を射つ大砲一挺、鉄砲三十挺、脇差五十口といったおびただしい戦利品である。
さらにその翌日、山中にかくれていた軍師大村治五平を捕虜として連行した。
信じがたいほどの勝利だった。