2014年3月3日
露寇(ろこう)事件始末(5-15) 荻野鐵人
江戸では五月初旬頃から、巷に噂がたちはじめ、幕府も一時的に動転したが、前年、老中首座に復職した松平信明を中心に老中牧野備前守を主務として対策協議がたびたび催され、あわただしい様子となった。
幕府内には対ロシア策としては二つの論があった。
第一は、羽太正養(まさやす)の積極的守勢論で、第二は、幕府内の一万石以上の御歴々の消極的守勢論であったが、現下の緊急処理としては、御用使派遣ということに決定したのは六月四日のことであった。
近接の南部・津軽の両藩に兵員の増強が命じられ、無防備の樺太への救援は、兵力充実を待って行うことにし、樺太渡航を願う松前藩をなだめ、津軽藩兵をもって、渡航地宗谷の固めに備えさせた。
次いで、秋田の佐竹藩、庄内の酒田藩、米沢の上杉藩など、東北諸藩に動員令を下した。
五月十九日現在では、まだ蝦夷地の警備陣は箱館奉行麾下百二十三人、南部家五百人、津軽家三百人、南部家陣所七ヵ所、津軽家陣所二ヵ所、亀田村陣屋は百姓も合わせて五百人、総勢千五百五十人にすぎなかったが、戸川安論(やすとき)が六月十一日箱館に着いた頃にはおよそ、二千五、六百人の出動に達していたという。
江戸詰めの初代箱館奉行戸川筑前守安論が現地に急行する必要があり、幕府の意志意向を体しながら江戸を急遽出発したのは五月十日であった。
安論が五月二十三日に仙台国分町で受けた箱館の羽太正養発の早馬による報告では(『日魯交渉北海道史稿』『休明光記』『日露交渉彙報(いほう)』)、五月十五日付の届書で、四月二十三日二艘のロシア大船は択捉島西浦内保沖に走り来り、大砲打放ち小船にて上陸し、日本の商船・官船を襲い、居合わせた番人共を捕らえ大船へ連行、その上、漁小屋・倉庫・家までなどを焼き払った、というのである。
続いて戸川安論が旅先で五月十八日得た第二報は、四月二十九日二艘の大船は紗那(シャナ)に至り上陸発砲して迫った。
択捉島の陣営は紗那にあり、箱館奉行支配調役格下役元締戸田又太夫以下南部・津軽両藩兵二百三十余入が越冬警衛にあたっていたが、激しい砲撃に、総崩れとなり、戸田又太夫は、敗走中、捕囚となるのを恐れて自害し、藩兵は松前表に引き揚げた。
会所に乱入したロシア人は、具足、大小筒等より米、酒、金屏風に類に至るまで一切を掠奪し、これらを二日がかりで積み込み、五月三日同所を出帆、さらに国後島の情勢を窺い、オホーツク海を北上して二十一日には樺太の暫多茄を再襲撃し、各地で番屋・倉庫を焼き、利尻島をも侵し、航行中の公船萬春丸以下四隻の船を襲い、その貨物を掠奪して船体を焼いたとのことであった。