2014年3月4日
露寇(ろこう)事件始末(5-16) 荻野鐵人
戸川安論は、仙台から南部藩に入り、野辺地には六月四日に泊まったが、松前はもちろん、南部・津軽両藩の情報、江戸の風説も耳に入って来た。
六月四日、老中大炊頭土井利厚は、御目付遠山金四郎(左衛門と改名)、御使番小菅猪右衛門と村上大学(監物と改名)、御徒目付六名、御小人目付十名に蝦夷地御用を若年寄列座の中で申し渡した。
六月六日には若年寄堀田摂津守正敦(まさあつ)が、六月八日には、大目附中川飛騨守忠英(前勘定奉行〉が蝦夷地視察の総責任者として、江戸出立の命を受けた。
各自、日を異にして出立したが、堀田摂津守は、六月二十一日で、その供は、足軽以下二百二十一人であった。
箱館へ渡ったときの人数は三百三十七人、中川飛騨守は六十一人、村上監物は三十三人、遠山左衛門は三十三人であった。
小吏などの供まで合わせると莫大な人数になった。
東北街道はこうした時局上の大小吏員の通行や注進や連絡、その他諸種の人の往復で異常な賑わいであった。
ことに仙台以北となると東西蝦夷地戌兵(じゅへい)の行進や駐泊もあり、毎日のように宿継(しゅくつぎ)人足が動員され、旅宿・夜具・膳腕・兵糧米・渡海船などの徴発となり、その徴募の催促は戦争風景と少しも変わるところがなかった。
例えば南部藩でも、田名部に食料不足が起こり、それが野辺地に影響し、野辺地が食糧不足になると七戸・五戸・三戸と連鎖反応で食糧の買い集めがおこる。
それがさらに、金田一・福岡・盛岡ともなり、それは福島の方まで伝播してくる。
恐らく各地において賄方手伝い・お給仕に男ばかりでなく主婦や女子までも動員になり、人手不足の波紋を起こしたことであろう。
農民とても人畜を徴発されたり、農業のスケジュールに乱れを生じたりしたであろう。
これが幾日も継続すると、商売や生活にも影響が現れ、次第に疲労が出て、自然に山村・漁村を問わず妄談・風説が飛び出す。
それを厳禁する町触(まちふれ)が出ると、あらぬ推測や疑心がなおさらはびこる。
こうして民心は雑然たる不安状態に陥るのであった。