2014年3月5日
露寇(ろこう)事件始末(5-17) 荻野鐵人
江戸でもさまざまな風説が流れ、百艘のロシアの船により松前が孤立して、奉行羽太は恐怖のあまり人事不省、あるいは捕虜となったとか。
家老の下国某はロシア王と外縁の因を結び、妻子を連れてロシアに出奔し、手引きして松前をロシアに撃たせたとか。
ロシアの船は江戸はもとよりどこの海岸でもあらわれるから油断はできないとか。
事は元冠に似ているが、神威も今回は頼りにならないとか。
「彼地の噂噺致す間敷由」奉行より町々に触れたり。(『通航一覧』巻二九二)
五月十八日に佐井沖合に現れたロシア船の大きさは五千石だの一万石だのとも言っていた。
一行は野辺地から下北半島を進み、当のうわさの佐井に着いたが、津軽海峡を渡るための日和待ちをしていた六月十日に新しい報告をうけた。
「去る五月二十九日ロシア船二艘が利尻島沖でわが方の船四艘に砲撃を加えた。内二艘の積荷(軍需品)は奪取され、焼かれたりし、乗員はことごとく一戦にも及ばず逃散してしまった」
と、いうのである。
戸川安論が六月十一日箱館に着いたが、ロシア艦船が利尻島で日本人捕虜八人を釈放したことによって、今回の事態が、長崎交渉の破綻に憤るロシア側の報復的措置であることを、幕府は始めて確認することができた。
御用使堀田摂津守正敦は七月二十六日箱館に着き、翌日直ちに諸有司に今度の一挙に関し、
「各深く遠く思いをめぐらし万全の策を奉るべし」と伝え、同月二十九日には、特に異国船から放免された番人共を白洲に呼び出し委細を糾問し、次ぎにアイヌ人の馬術を見分して励ました。
八月朔日からは、連日のように、南部・津軽の重役を呼び、勤番・警備・人数増強などの労をねぎらい、ことに南部に対し特別慰労の言葉を与えたり、大森浜の同藩陣営を検閲し、また砲術検閲もした。
次ぎに七重浜の秋田佐竹勢を検閲し、さらに近場所のアイヌ人を呼び寄せ、和人の陣立駆引を見せ日本の武威を示してから、それぞれに物を賜り、幕府の方針たる蝦夷撫育を自ら行った。
そして東蝦夷地の有珠・アブタ辺まで巡視して八月二十六日に松前に着いた。
翌二十七日には松前領内から海岸通を見廻り、立石野では庄内の酒井勢の陣中に兵士たちをねぎらい、ここでも西アイヌ人を呼び、陣立見物や賜物をして撫育を実行した。
続いて江差を見分、以上で旧松前領地の見分を終えて九月四日に松前に帰着した。
翌五日は、随行の諸有司に帰路の際の東西海岸の要害・地理の見分を指示し、立石野で津軽家の軍を検閲した。