2014年3月6日
露寇(ろこう)事件始末(5-18) 荻野鐵人
九月十二日松前を出発し、十月十三日に江戸に帰着するや、検閲の結果として異国船入冠処理に関し賞罰を発表した。
賞 国後詰の向井勘助は択捉の変を聞くや異国
人の上陸を阻止すべく武威を張り、また武
器を造り、アイヌ人には身命不惜を以って
すべく激励した。
賞 国後詰の比企市郎右衛門は厚岸から走り帰
り、配備につきアイヌ人を激励し、その上
「もし運尽て我(比企)と(向井)勘助打
死せば、国後一島の御用筋一向に分るべか
らず、事の静なる内に諸書物を取調べて箱
館に送らんには如じとて、諸帳面をはじめ
そのほか要用の書物をことごとく封じて箱
館へ差越し、猶又此末心組置たる御用筋一
品も残らず巨細に申越、今は心安しとて、
ひたすら討死の覚悟をぞ極めける」という
理由である。
賞 宗谷詰の深山宇平太と小川喜太郎は異国船
防ぎ難しと遁走し来たる和人やアイヌ人を
叱咤激励して勇気を挽回させたり、捨てた
乗舟を曵返らせんとしたり、賊船立向いの
配備もした。
罰 奉行羽太正養・同戸川安論
国後詰の中村小市郎
択捉詰の山田・関谷・児玉ら
利尻島の森重ら
宗谷行の村上左金吾ら
罰儀 監督不行届・行動不明瞭・退却・持場離脱
・逃遁・申立偽証など。
処分は旧箱館奉行所の出張役人全員に及び、それそれ、押(おし)込(こみ)、重追放、江戸払いとされた。
自害した戸田又太夫の場合は、遺族が扶持(ふち)と屋敷を召上げられている。
騒乱時、江戸にあった戸川安論も、翌年四月に御役御免、差(さし)控(ひかえ)に処せられた。
御用使堀田摂津守正敦(まさあつ)が帰府してから十月二十四日に箱館奉行は従来の二人から四人構成となり、「松前奉行所」と改まり、蝦夷地全体の時務処理をするよう改変された。
フヴォストス大尉とダヴィドフ小尉の率いるユノナ、アヴォス両艦は、日本遠征の任務遂行ののち、1807月16日(文化四年六月十一日)、戦利品を二隻の船に満載して意気揚々とオホーツク港に帰帆した。かれらは当然、ほめられるものと信じていた。
オホーツク長官のI・N・ブハーリン海軍中佐は、日本遠征の詳細を告げることを命じ、フヴォストフがレザノフからの秘匿命令を盾に拒否すると、国家反逆罪で、フヴォストフとダヴィドブを牢に投じた。
そして、アレクサンドルー世、海相チチャゴフ、東シベリヤ総督ペーステルに向け、事の経緯を報告すると共に、軍法会議を開く裁可を求めた。
フハーリン海軍中佐の出した報告書によれば、かれら両人はロシアの国益に反する反日行動を行った。もし日本が報復のためにオランダやフランス(当時オランダはフランスの支配下にあった)の援助を求めれば、極東海域でわずか三隻の武装船しか持たないロシアとしては、北米植民地はもとより、カムチャッカ半島やオホーツク沿岸まで危険にさらされる。
とのべた。
もっともな論旨といっていい。