2014年3月7日
露寇(ろこう)事件始末(5-19) 荻野鐵人
8月27日(陰暦七月二十四日)、オホーツクでの軍法会議は、レザノフの追加指令を有効とみなし、中止命令に違反したとして、フヴォストフとダヴィドフを有罪とした。
ところが、9月17日(陰暦八月十六日)、フヴォストフらは脱獄してシベリアを横断してヤクーツクへ逃れ、ここから露米会社の本社あてに手紙を送って無実である旨を訴え、イルクーツク知事の了解を得て同地に移った。
1807年8月27日、首都ペテルブルグでひらかれた軍法会議は、かれらを有罪とし、投獄した。
ただし、かれらが日本人から掠奪した積荷は露米会社の所有になり、旧式青銅砲(ポルトガル砲)二門と日本式火縄銃は、皇帝の武器庫に記念品として収蔵された。
翌1808年(文化五年)五月、皇帝の命により、ペテルブルグへの帰還を許された二人は、ロシアが交戦中だったスウ一デンとの戦闘に従軍したが、二人ともめざましい武勲をあげ、先の有罪宣告を免除された。
しかし、海軍当局が申請した二人の叙勲については、皇帝の裁可が無くかなわなかった。
アレクサンドルー世が、レザノフの日本膺懲策には、当初から反対の意向であり、フヴォストフらの海賊的行為を嫌悪したためだといわれている。
1809年(文化六年)、フヴォストフとダヴィドフはフィンランド戦線より凱旋して出席した首府での十月四日の宴会の帰路、ネヴァ川に架かった壊れた橋を渡る際、誤って転落し、不慮の死をとげたといわれるが、二人の死体は発見されなかったという。
フヴォストフ三十三歳、ダヴィドフ二十五歳であった。