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2014年3月10日

露寇(ろこう)事件始末(5-20) 荻野鐵人

 紗那にいた全員が無能、無策、卑怯であったにもかかわらず、南部藩は、捕虜になって帰ってきた大村治五平だけを責めた。
 捕虜になった南部藩の火業師(砲術師)大村治五平には『私残記』という著作がある。
 公刊されたものではなく、子孫のために私(ひそ)かに残すという目的で書きのこされた択捉島防戦顛末記である。
 要するにみな逃げてしまったのだ。自分だけではない、というのが『私残記』がのべる実情であった。
 治五平は、川岸の洞穴の中に隠れていて、五月二日、ロシア兵で出遭い、脇差をもって打ちかかろうとしたところ、物につまずいて倒れた。そのために捕われた、という。治五平にすれば、白刃を抜いたのは自分ひとりだったということを暗にのべている。
 この手記が書かれた目的は、筆者である大村治五平が、怠慢かつ卑怯であったという濡れ衣を、世間にむかって晴らせなかったため、せめて子孫にだけは真実を伝えたいとしたところにあった。
『私残記』によると、会所に籠城する日本側は、幟や旗をにぎにぎしくたてならべ、士分はみな美々しく具足を身につけ、はなやかな陣羽織を身につけていたという。
 二百年前の戦国時代の屏風絵のようなものであったろう。

樺太・千島襲撃事件は、対露警戒心を一挙に増大すると共に日本の北辺に対する守りの必要なことを認識させた。
 この事件以来、日本人の間に「我国の安全保障はロシアの存在と不可分である」という「ロシア・コンプレックス」を形成することになった。

 文化四年(1807年)に、七十五歳の杉田玄白は、卓抜したロシア策を開陳している。玄白の場合には、幕閣内の有力者や世間の識者たちに、確実に読まれることを想定しており、家康や吉宗の故事を引き迫るという、筆禍を避ける周到な配慮を払った上での痛論である。
 それは、前年のロシア軍艦による北方地域狼籍を踏まえ、開国論を裏面にひそませた、いわゆる警世の一書であった。
 玄白は、次のように結語する。
 ロシア対策には、交易するか、戦争するかの二つの道しかない。
 だが、後者の道は、目下のところは不可能だとするのである。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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