2014年3月13日
露寇(ろこう)事件始末(6-2) 荻野鐵人
五月二十六日諸手物頭(戦陣では伝令使となり、平時は領内を巡察する職)蝦名彦左衛門の組へ加わるようにとの命令を受けた齊藤勝利は、夜九時頃、郡所から諸手足軽勤務のお手当金三両二分の金子を受領し、急なことでもあり身仕度も十分にできないまま、翌二十七日朝七時頃、蝦名彦左衛門宅へ出勤した。その屋敷は笹森町の西側、亀甲町の裏岸にあった。
昼頃になり、各自が宿元へ戻って昼食をとろうとしていたところへ、向かい東側の長柄(長柄の槍)奉行馬場種次郎(文化四年秋、斜里詰の総指揮に任じられたが、時季おくれのために明春赴任の予定であった)方から使いが来たので出向いたところ、各々へ握り飯を進上したいと差し出され、組員三十人が御礼を申し上げて昼食をとった。
かれこれして午後四時ごろになって当地(弘前)を出発し、夜八時ごろ藤崎村で弁当を使い、それから夜中へかけて行軍し、二十八日の明け方になって青森へ到着した。
五月二十七日の午後二時頃、御使番(伝令使)成田求馬がお召馬に乗って早打ちで駆けつけ、早々に三馬屋(三厩)から松前表へ渡海せよ、との命令を伝えた。
五月二十八日、青森の禅寺常光寺を本陣と決め、付近の町家へも落ちついていた諸手物頭蝦名彦左衛門・貴田十郎右衛門、御目付田中太郎五郎、そのほか平士(ひらさむらい)与力十人、諸組足軽、御持槍、掃除小人、郷夫ら総勢七百五十人は、青森を出立したが、折からの雨天で難儀しながら、その夜は平館に泊まった。
五月二十九日三馬屋に到着して日和待ちとなった。
六月二日、青森表からの軍船五艘が三馬屋へ着いた。
六月四日、風向きが良くなったので、出帆することになり、まだ暗いうちから明け方へかけて、船へ一同の着替荷物(軍用行李)を賑やかに積め入れ、一同が乗船したのは朝八時頃であった。
こうして三馬屋を出帆したが、途中何事もなく午後二時ごろ箱館表へ着船した。