2014年3月14日
露寇(ろこう)事件始末(6-3) 荻野鐵人
そこでとりあえず町家を借りあげて小憩する間もなく、行列を組んで箱館の高龍寺に至り、これを借り上げて落ち着いた。
ほかに近所の小寺も借り上げ、当分これらの寺に滞在することになった。
箱館陣屋には前年から詰合の津軽藩兵が四百人余おり、勘定奉行高屋吾助が物頭代として去年の秋から在勤しているとのことであった。
六月四日午後四時半ごろ、佐竹様(秋田藩)の軍船六艘が揃って箱館へ着陣した。
軍勢・軍馬は、海浜で小憩ののち、夕方、行列で箱館郊外の亀田という所に行き、そこで仮陣屋を急造してその夜を過ごし、翌日から本陣屋設営の手配をした。
その時津軽方からいろいろな品物を贈られた。
六月六日、南部様(南部藩)の軍勢が軍船四艘で到着した。そのあと庄内酒井左衛門様(庄内藩)、仙台様(仙台藩)、会津様(会津藩)の軍勢も追々着船したが、せいぜい家数千軒の場所へ一万四千余(ときの箱館奉行羽太正養が退職後に書いた「休明光記」によると七月七日までに箱館へ到着したのは、津軽藩増人数六百九十二人、南部藩増人数九百人、秋田藩五百九十一人、庄内藩三百十九人で、南部・津軽の定式人数〔文化元年、幕府は南部・津軽両藩に蝦夷地の永久警衛を命じたので、以来両藩は毎年二百五十人を交代派遣していた〕を加えて総勢三千余人とされている軍勢が、箱館付近の広野へ仮陣屋を建設して駐留した。
ところが町家の者どもはその物々しさに恐れをなしたか、店を開く者もなく、商売をやめて戸を閉めきっていた。