2014年3月17日
露寇(ろこう)事件始末(6-4) 荻野鐵人
箱館表には公儀御役人がお詰合になっているので、諸家様から使者をもって到着の申告をされた。いずれも陣羽織着用と見受けた。
津軽藩兵の箱館から宗谷への一番立ちは、四月十九日勘定人伊東友衛以下二十五人であり、同二十日には藩医佐々木元竜以下二十五人が、五月十五日には、択捉詰めの予定を変更した勘定小頭山崎半蔵の一行が出立していた。
かくして六月上旬には二百人余の津軽藩兵が宗谷集結を終わっていた。ただし、諸手物頭貴田十郎右衛門の宗谷着任は八月二十八日(陽暦九月二十九日)であったが、その日に初雪があった。
六月十一日、奉行より急に百人の増兵の命令が出て、三十二、三人ずつ三度に分けて出発することになり、陸路宗谷へ向かった。そのとき勘定人加勢田中才八郎が道中の責任者となり、斎藤勝利もこの隊に加わって行軍した。
当時宗谷へ行くには、箱館から内浦湾(噴火湾)を廻って太平洋に出て、苫小牧附近から再び北上して千歳を越えて石狩へ抜け、それから日本海を海岸伝いに北上し、増毛(ましけ)→留萌(るもい)→天塩(てしお)を越えて宗谷へ行くのであり、どんなに急いでも一カ月の行程であったが、道中日数二十六日で、七月九日(陽暦八月十二日)には宗谷へ到着した。
陸路の北上は困難を極める。道路などの整備はほとんどなく、原始林が至る所で行く手を阻む。通常では、箱館から宗谷までは日本海を北上する船路によるのであるが、今回は蝦夷地の西海岸にはロシアの艦船が多数出没しており、やむをえず陸路によったのである。
宗谷に着いた津軽藩兵二百名は、長途の疲れをいやす暇なく、沿岸警備のかたわら陣屋設営の重労働に汗を流さなければならなかった。