2014年3月18日
露寇(ろこう)事件始末(6-5) 荻野鐵人
先着の二組の津軽藩兵は、三組目が到着したとき既に陣屋を二棟建てていたが、さらにもう二棟を建設することになり、到着早々翌日から直ちに手伝いを命ぜられ、材木運搬の人夫がわりや野葦の刈り取りに着手し、あるいは井戸掘りの手伝い、大工の助手など、まるで土木工事の人夫として毎日出動した。
雨天となっても雨具がないので、ことに一同は難儀した。
山働きするにも仕事着を持参していないので、ほとほと困った。
諸組足軽以下小人にいたるまで働いたが、郷夫は重労働を主として派遣されたものであるから、これらは山中に入って薪炭材の伐り出しに従事した。
宗谷詰の公儀役人は調役鈴木甚内(甚内は、当時箱館奉行支配属吏としては最高の吟味役であり、着任にさいしては東蝦夷地を巡察、斜里を経由して九月二十七日宗谷に到着した)、調役並深山宇平太(享和元年に得撫島に渡り、「天長地久大日本属島」の標柱を建てて勇名を馳せている)・調役下役松田仁三郎(のちの伝十郎、文化五年、間宮林蔵とともに樺太を探検した)らがいた。
松田は、津軽藩勘定人笹森寛蔵ら三十人とともに箱館を出発、七月十八日宗谷に着任していた。そのほか家来、会所支配人・通詞(蝦夷語通訳)・番人とも十二人ほど駐在しているようであった。
その会所は葦ぶきの横長屋が一棟、板蔵二カ所、木部屋(薪炭などを置く小屋)二ヵ所と、蝦夷の家が八軒ある。いずれも屋根は葦ぶきである。
津軽陣屋は追々建設が進んで五棟出来上がり、貴田十郎右衛門が総頭役で、その下役は勘定小頭山崎半蔵(文化二年に択捉島越冬警備の経験をもっており、四年の宗谷詰合についても詳細な記録を残している)、勘定人伊東友衛・斎藤久司、ほかに大筒役二人、足軽目付成田勝右衛門、以下大組御持筒、諸手御城附長柄、ならびに御持槍、掃除小人、杖突(作事奉行の配下に、作事受払役・杖突・鳶・大工などがあり、家屋の建築修理、河道土木などの工事にあたった。杖突は測量などにあたる者)、鳶の者、御大工、町大工、郷夫など二百人余のところへ増援の百人が駐屯したのである。