2014年3月19日
露寇(ろこう)事件始末(6-6) 荻野鐵人
七月十四日同所に出張して来ていて魚小屋に滞留していた家老松前將監を大将とずる松前藩の戊兵百五十人ほどが、樺太沖合で鉄砲の響きが聞こえたということで、急に小船に飛び乗り、大筒を積み込み、樺太島めがけ八九艘で馳せつけた。朝七時ごろであった。
この事件につき公儀役人衆からお達しがあったので、わが方でも、小高い丘に遠見番所を築造し、沖合間近へ大筒を据え付け、非常の手配を固めた。
そうしているうちに沖合で大筒の響きが聞こえたので、わが方でも大筒を発射させた。
しかし翌日の昼には砲声もとだえた。
遠見場所へは昼夜とも交代で勤務した。そのほか風廻り、夜廻りなど、この四日間は昼夜とも武装して勤務した(フヴォストフは、六月五日の利尻島襲撃後、帰国の途についているので、日本側の誤認と考えられる)。
松前藩の一行は、樺太島へ駆けつけたが外国船は見えなかったので、松前家の国替え命令が発せられた旨の連絡もあり、そのまま松前表へ引揚げたそうである。
七月十六日、宗谷詰合のうちから百人で斜里を警備する命令が出た。
七月十八日、勘定人加勢田中才八郎を隊長とする一番立ち一隊三十人は、着替え荷物をそれぞれ包みにし、各自の名前を書いた木札をつけ、藩船八幡丸に武器のほか米、味噌や酒も少々積め入れて廻送してから、重い足をひきずりながら宗谷を出立し、陸路を七十七里も奥地の斜里へ向かった。この時斎藤勝利は道中小頭役を仰せ付けられた。