2014年3月20日
露寇(ろこう)事件始末(6-7) 荻野鐵人
七月二十九日(陽暦九月一日)、道中十二日間掛かって、午後二時ごろ斜里に到着した。
二人の町人風の支配人が出て来て、海岸にある漁小屋二カ所を改造したらしい、三間に九間(二十七坪)の小屋を指し、
「ここに落ちつかれるように」
というので、斎藤勝利が真っ先に小屋へ入ってみたところ、小屋は、急に板を打ちつけて造ったものらしく、莚(むしろ)を敷きつめてあった。
当分の間のわれわれの住居になるのだろうと皆で話し合っているところへ、八幡丸入港の知らせがあった。
直ちに海岸にいた同勢が出かけ、まず各自の着替え荷物を先に陸揚げした。全部の荷物の陸揚げが終わって、八幡丸は宗谷へ帰航した。
鍋釜・米・味噌・桶鉢の類を取り出し、飯の仕度をし、ようやく宿泊の段取りとなったが、行灯がないので、公儀会所から蝋燭を借り、この夜を凌いだ。
七月三十日、二番立ちの一行のためにと、漁小屋一ヵ所を惜りあげた。
八月朔日(ついたち)、勘定人笹森寛蔵を頭分とする二番立ちの三十五人が、着替え荷物を蝦夷人夫に背負わせて到着した。この一行は、借り上げておいた漁小屋に落ちついた。
八月七日、斜里に仮陣屋を建設するに着手するようお達しがあったので、一同集合し協議の上、宗谷でのときと同じく、諸組以下が人夫がわりに働くことになり、敷地の認可、木材の切組めの準備に着手した。
八月十日、蝦夷人夫先触れにより、三番立ちが明日到着することを知り、漁小屋に入れておいた武器ならびに米・味噌・酒・漬物などを新たに借りあげた物置所一ヵ所に移し、その空いた漁小屋へ到着の人数が入れるよう手配した。
八月十一日午後四時ごろ、作事受払役工藤文作を頭分とする一行が、食糧・塩・味噌・漬物、酒肴から草鮭の類まで蝦夷人夫に背負わせ、東蝦夷地の国後から、山中・川筋を通って、蝦夷小屋に泊りながら、七日間掛かって午後四時頃到着した。