2014年3月22日
露寇(ろこう)事件始末(6-9) 荻野鐵人
最上徳内は太田彦助、早川八郎と共に、当時松前、箱館につぐ都であった江差の勤番を命ぜられ、滞在していたが、九月松前城引請が済むと斜里に赴いた。ここには、在住金井泉蔵が七月から津軽兵百人を率いて警衛の任にあたっていた。
泉蔵は二十二歳の青年であった。俊英で、しかも豪気な男であった。
のちになってのことだが、この泉蔵も浮腫病にかかり、手も足もまるで杵のようになってしまった。ついには腹這いになって、事務を執った。
九月八日、宗谷陣屋詰から急御用状が到着した。
「外国船が宗谷沖合に見えたので、あるいは、斜里あたりへも廻航するかも知れないから、警備の用意をするよう」
と云って来たので、このことを公儀衆にも報告し、斜里の弁天堂山上に四坪ほどの遠見番所を設け、昼夜番人を付けておいた。
ところが公儀衆の方には幡・幕の用意がないとのことなので、急ぎ黒・白の木綿で幡・幕を張った。
五、六日間も見張っていたが、沖合に外国船は見えなかったので、その旨宗谷へ報告しておいた。
斜里詰最上徳内殿から、毎月三回ずつ星場(的場)打ちの訓練をするように達せられたので、三日・十三日・二十三日の三回を定日と決め、諸組のうちから十二人ずつ順番に、会所の広庭に設けた星場に平服で出仕した。
勘定人笹森寛蔵・田中才八郎ら上下三人ずつは、肩衣(かみしも)で臨席した。
長柄奉行馬場種次郎が斜里詰合を仰せ付けられたが、すでに冬季に向かい通行も困難なので明春になって赴任すると通知して来た。
それまでの間は勘定人が詰合御人数を指揮するようにと申して来たので、このことを一同に伝えた。
十月五日、漁小屋に入っていた人数が下長屋へ移転した。そのとき賄役両人を上席とし、諸組の分は席次順をもって、郷夫の方は年齢順をもって席割りとするよう決定した。
こうして全工事が完成したのは十一月十五日のことで、北国ではすでに船便もとまり、長い冬ごもりの生活に入った。
このころ陣屋内では、早くも病人が続出し、重苦しい空気に包まれていた。