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2014年3月26日

露寇(ろこう)事件始末(6-13) 荻野鐵人

 二月朔日郷夫十三町の喜助、同四日作事受払役工藤文五・郷夫野木村佐五右衛門が病死した。
 二月六日、公儀御役人岩間哲蔵殿、宗谷から斜里へ転勤ということで、午後二時頃到着された。
 二月十日、最上徳内殿は引継ぎを済ませて松前へお帰りになられるというお知らせがあったので、先払いの者両人を途中の網走まで差し出した。
 ところが徳内殿は、途中紋別から氷海を渡って樺太島へ行かれるということで、鍋釜・小道具・食糧・塩味噌から燃料の果てまで蝦夷人夫どもに背負わせ、およそ六七日間の用意をして行かれるとかで、紋別から樺太島まで海上およそ五十里余もあるらしく、その樺太島を経由して宗谷へ帰られるとのことである。

 徳内の放言はどんな意図によるものか解らないが、もちろん樺太まで氷上渡海できるわけがなく斜里を二月十六日出発し陸行して二月二十九日宗谷に着いている。この時、宗谷には調役下役元締格松田伝十郎が、吟味役鈴木甚内、調役深山宇平太と共に津軽兵二百人を監していた。徳内が宗谷に着いて間もなく、間宮林蔵もこの地に現れ、ここに、徳内、伝十郎、林蔵という三探検家の会合となった。徳内は宗谷で津軽藩兵と交代の会津藩兵の到着を待ち、四月一日調役荒井半兵衛と共に樺太へ渡り、樺太の警衛に当たっていた会津藩の兵を監督指揮するために同島に渡り、クシュンコタンの番所に至った。
 会津守備隊の陣将北原光裕が同地の中央高地に陣営を築き、その屋根を椴松の皮で葺いたのを見た徳内は「椴松の皮は白いから、遠くからでも露兵に発見せられる惧れがある。青葉のついた椴松の枝で葺くがよろしい」と、忠告したという。この時、北原光裕の子、光輔、年十七にして従軍していた。
 徳内はさらに奥地樺太巡視の事に従った。記録によれば、六月二十日再び名寄に至って、ヤエンクルアイノにも会ったという。
 かくて徳内の南北蝦夷地に在ること三年、翌文化六年、五十五の歳に江戸に戻った。
 帰府後の徳内は文化六年附を以て、伏見宝蔵御番役という役目を仰せ付けられ、また、御簾中御広間添番役にも挙げられた。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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