2014年3月28日
露寇(ろこう)事件始末(6-15) 荻野鐵人
宗谷から当斜里まで七十七里の間に、中ほどに紋別という所があって、公儀会所が一軒、ここに人間(和人)四、五人がいるが、男ばかりである。ほかに和人は全くいない。
さて宗谷・紋別・斜里、この三カ所に川があって、春秋には鱒・鮭の漁獲があるだけで、そのほかの水産物は一切ない。宗谷川・紋別川・斜里川、いずれも水量は相当ある。すべて蝦夷言葉では川のことを「ペッ」というのである。
四月二十八日、御持筒足軽木村堅蔵・同神藤吾、諸手足軽工藤専太郎・同芳賀定次郎・同福士熊次郎、作事杖突大沢伝八、郷夫神山村佐五右衛門・赤石村多吉・小友村吉三郎、以上九人は病気のため帰国願いが許され、当地を出立していった(全員無事帰国)。
五月朔日、御医者石井隆仙は病気につき松前へ帰りたいとの願いが許され、十三町の郷夫石五郎を付き添いとして出立した(二人とも生存帰国)。
五月二日、松前城下から御飛脚として諸手足軽外崎清右衛門、郷夫岩崎村市五郎の両人が到着し、松前城下の様子などを語り合ったが、久しぶりのことでもあり、話が非常に新鮮におもわれ楽しかった。
五月六日、御飛脚外崎清右衛門は、当所詰合の郷夫袋上村勘次郎と組になって出発したが、岩崎村の市五郎は病人に付き添いのため残留した。
六月十一日、松前函館詰の藩医中村本川が、(中村本川は、四月十八日には宗谷詰津軽藩士の引揚命令が出されていたことを知らずに四月十九日、宗谷を経由して斜里へ来た)、斜里詰合に病人の多いことを聞きおよび、お見舞いとして、掃除小人川倉村伝十郎、郷夫今井ケ沢忠助を連れて到着した。まだ元気な者も残っていたことをお互いに喜び合った。
この医者から新暦を写しとったところ閏(季節と歴月とを調節するため、平年より余分にもうけた暦日・歴月。すなわち閏年は十三カ月となる)六月があり、大小の月日も判明した。
五月十八日、御城附足軽成田栄次郎が病死した。