2014年3月30日
露寇(ろこう)事件始末(6-16) 荻野鐵人
斜里の漁業は、六月中は鱒漁ばかり、七、八月は鮭漁ばかりで、小魚の類や昆布のようなものは一切ない場所である。
昨年、六月中は綿入れ、朝夕は重ね着して凌いだ。七、八、九月のころになると、時には単衣を着用することもあったが、九月に入って単衣を着たのは二日だけであった。とにかく奥地勤務の場合は単衣はさほど必要はない。夏羽織など、これまた着ることはない。これは蝦夷地全体について云えることで、四季の差別にかかわりはないのである。
閏六月十三日(陽暦八月四日)、足軽目付桜庭又吉が病死した。
郷夫藤崎村の忠助が脱走したらしく、捜索したが発見できなかったので、その旨上役に報告した。
五月下旬になると、午前十時ごろまで霧がかかり、閏六月に入っても霧は止むことがなく、細雨のように衣類を濡らし、毎日傘をさして諸用をたした。
雨天などの場合はとくに強く、六、七問も離れると衣類の縞目もわからない。まことに蛮地の気候で、病人も多く出たはずである。
閏六月十日ごろから袷を着用するほどの暖かさとなったので、残った者たちは喜び合った。しかし、なお朝夕は綿入れを着て凌がねばならなかった。
当斜里場所は、冬季間の寒気すこぶる強く、とても越年などは出来そうにもない所と、前々からきまっているそうである。
それならば、ここに住んでいる蝦夷たちは冬季間どこへ行くのかと尋ねたところ、斜里から東海岸へ向かって山合いを隔てて七里ほどあるクスリ(釧路川の水源・屈斜路湖周辺地帯を指す。温泉地帯で冬も暖かい)まで山沢を通って引越し、翌年四月ごろまで斜里には帰って来ないのだそうだ。
飯炊き蝦夷の弁慶がこのように云うのである。それとも知らず、このような場所へ御人数を配備したのであるから、病死者の多く出たのも当然のことである。
今後は、秋九月から翌年四月までは、東地へ移動させて冬季間を過ごすよう仰せ付けられたいものである。
蝦夷言葉では昔から、越年する住居をウルハコタンと云う。ウルハは古い、コタンとは住居の里のこと、と子供蝦夷は云う。
ウルハコタンへ行くので、しばらくはお目にかかれませんと云って、十月はじめごろまでに当地を引払うのだそうである(当時の斜里蝦夷には、夏村と冬村の区別があり、この冬村を本拠としていたように考えられる)。