2014年3月31日
露寇(ろこう)事件始末(6-17) 荻野鐵人
閏六月の末になっても交代の模様が分からず、どうなることかと案じていたところ、同二十四日の昼過ぎ、当地の沖合に帆掛船が現れ、こちらへ近寄って來るように思えたので、一同が小高い所へ登って見ていると、いよいよ湾内に近づいて来た。
それでは交代船かも知れない、と一同が喜んでいると、間もなく小船に三、四人が乗り移って上陸し、わが陣屋へ参り、御用状持参の旨を申し出た。
御用状は斜里引き払い命令で、四百五十石積み千歳丸到着しだい引揚げよとのことであった。
このことを公儀御役人衆へ報告した後、皆々に申し伝えたところ大いに喜び、それから準備に着手した。
まず御武器ならびに御運送残品の調査にかかり、たちまち作業を終わった。
ただし御陣屋三ヵ所、物置所ならびに稽古所はすべてそのままにしておくよう仰せつけられたので、これらを会所支配人に引き継ぎ、また米・味噌・塩の類は公儀で御買い上げとのことなので、その値段をとりきめ、それぞれ計量して支配人に渡し、その代金五十七両・銭一貫五百三十文の受取証文を当所詰合岩間哲蔵殿へ提出した。
御武器ならびに諸道具を千歳丸に積み入れのため蝦夷人夫を雇い挙げてとりかからせ、御人数着替え荷物を合わせて総数四百八十六個を引渡した。
それで日和待ちとなったので、これまでに死亡した御人数の墓所に、工藤茂兵衛が削り、形よろしく出来上がった、高さ二間・七寸角一本の槍の墓標を斎藤文吉が病死者七十二人の俗名を席次順に書き記した。
それを郷夫二人に持たせ、工藤茂兵衛・斎藤文吉ならびに郷夫二人の四人連れで墓所へ参り、その上の方に持参の角柱を建てた。
それから墓所の土を少しずつ死者の数だけ紙に包み、名前を書き記して箱に入れ、それを七島莚(鹿児島県宝七島で産するむしろ)で包み、帰国したら斎藤文吉の宿元へ持参してから、各自の宿元へ届けることとした。
なお、この墓所は御陣屋の後方五町ぐらいの奥、平地の山合いにある。
当所警固の人数は引払いを仰せつけられ、迎えの千歳丸四百五十石がこのほど参着したので、日和まちし風順しだい出立する、と一同墓標に向かい申し唱え、各自へ水を供えたときには、思わず涙にむせんだ。
閏六月二十六日(陽暦八月十七日)、千歳丸の船頭が云うには、近日中に順風が出そうだから、本日中に乗船されたいとのことで、このことを公儀岩間哲蔵殿にお届けし、会所支配人をわが陣屋へ呼び寄せ、御長屋三カ所ならびに物置所・稽古所ともそれぞれ引き渡し、すぐさま会所岩聞哲蔵殿に御挨拶のため、笹森寛蔵、田中才八郎、高島五八郎と斎藤勝利の上下四人で参上した。
そのほかの者は、中村本川上下二人、斎藤文吉、工藤茂兵衛、福士利助、三上市右衛門、高屋五八郎、郷夫の者和徳村久兵衛・岩崎村市五郎の九人で、道中用心のため十匁筒二挺・六匁筒一挺・三匁筒一挺を携えて乗船した。
斜里警備御人数百二入のところ、引払いのさいには計十七人となっていた。