2014年4月1日
露寇(ろこう)事件始末(6-18) 荻野鐵人
船中で昼食をとったが、午後三時ごろには風向きがよくなり、船はだんだんと沖合へ出て行き、そして順風に乗り疾走し、七月二日、宗谷沖合で風が変わりやむなく、樺太島久春古丹(後の大泊)の沖まで行った。
しかし暮れごろになって出し風が強くなり、とても湾内に停泊できないので利尻(原文、利コンシリ)という島へ船がかりし、ここに三昼夜滞留した。
その間に上陸し、島の蝦夷人と魚類を少々交易取替えし、また飲料水なども積み込んだ。
こうして久しぶりに生魚を口にすることが出来たのである。
七月六日の明け方ここを出帆、神威(かむい)岬を廻そうとしたところ、またもや風が変わったので、止むなく積丹という所へ船をつけた。この積丹の沢の奥に名竹(積丹竹は斑入りのため、古来煙管の罹宇として珍重された。蝦夷名物の一つで、この地を旅行する者は必ず一見した)が生えている。
この沢の入口に会所があって、番人が竹林の見張りを兼ねているとのことである。
七月七日の明け方、風順がよくなったので積丹を出帆、走り船になったが、何とも神威岬を廻しかね、とやかくしているうちに夜中になった。
ところが翌八日の明け方、大風が吹き出して停泊困難となり、碇四丁を下ろそうとしているうちに、船尾を大破し、あやうく沈没しそうになったので船員達は総立ちで働いたが、悪風ますます吹き荒れて危険となった。 そこで、せめて忍路という所へ船寄せしたいと、船員達は色々と立ち働き、ようやく昼過ぎ忍路へ着き、一同は安堵の胸をなでおろした。
この忍路にも会所があったので、一同上陸した。
ところが、ここから三里ほど東に高島という所があり、その場所にわが御馬廻組頭森岡金吾殿御人数三百五十人ほどが駐屯していると、会所の支配人から聞いた。
田中才八郎と工藤茂兵衛が郷夫二人を従え、蝦夷人夫を雇い先発させて行ったところ、たしかに駐屯していた。
「斜里詰人数御引払い命令により帰国の途中でありますが、近来風順が悪く難儀しております」
と、申し上げたところ、
「斜里詰御人数は全滅したとの風聞があり、弘前表においてもなにかと手配が行き届かなかったのではないか。しかし、たとえ一人でも無事に帰国できたことは、世間の聞こえもよろしい。そなたら一行は陸行した方がよろしい。そのことを自分からも藩に伝えておくが、明日は忍路へ行って御一同と対面する」
と、申されたそうで、才八郎・茂兵衛は直に引き返し、そのことを皆に伝えた。