2014年4月4日
露寇(ろこう)事件始末(6-19) 荻野鐵人
七月十三日午前十時ごろ、森岡金吾殿は上下三十四人で忍路会所へお越しになった。
お呼び出しがあったので参上したところ、早速ご挨拶をいただき、そのうえ、きせる一本・玉たばこ二つ・素麺一把ずつを下され、明日は高島陣屋へ参るよう仰せられて、午後二時ごろお帰りになった。
七月十四日、千歳丸の上乗を工藤茂兵衛と決め、残る十六人は蝦夷船を雇って高島陣屋へ参上、昨日のお礼を言上した。
素麺はもちろんのこと、久しぶりに煙草にありつき、一同大喜びであった。
同十五日は高島滞在を仰せ付けられ、十六日にここを出発、小樽内運上家から蝦夷人夫六人を雇って着替え荷物を運搬させ、十六人連れでその日は石狩泊まり。
十七日石狩出立、それから川船に乗って石狩太へさかのぼり、四、五町ほど陸行して仮小屋に泊まった。
十八日同地出立、またも前日の船に乗って上流へさかのぼり、対雁(ツイシカリ)という所で昼食をとり、それから千歳川へ入ってこれをさかのぼり、千歳の運上家へ泊まった。
ここには蝦夷家が三十軒ほど見えた。千歳から石狩までの道程二十五里ということである。千歳川は五年以前までエラフ川と称していたそうである。
さて、石狩川というのは松前第一の大河で、七百石積みの大船が航行できる。
七月十九日千歳出立、四里半で美々(ヒビ)という所で昼食、ここに蝦夷家八軒が見える。
美々から川船で一里半下り、それから陸行して東海岸へ出、勇払(ユウフツ)という所の会所で宿泊。ここから牛馬が見られる。
同二十日勇払出立のさい駅伝の馬二頭を出し着替え荷物を積ませたが、馬追いは蝦夷人であった。よく熟練し、巧みに牛馬を操った。途中に昼休所がなく、九里進んで白老という所で泊まる。この白老には蝦夷家が四十軒ほどあり、村落の形態を備えている。
この辺から南方は蝦夷地でも相当の場所のように見える。漁事もかなりあるということである。運上家一軒、ここに公儀御役人衆が駐在しており、役人の通行宿泊が度々あるので、運上家の向いに幅三問に七間(二十一坪)の長屋を一棟建てておき、一般の旅人はこれへ泊めるようである。白老は、五力年以前津軽藩の警衛地(寛政十一年〔1799〕、幕府の東蝦夷地直轄にともない、その警衛は南部・津軽藩に命ぜられたので、津軽陣屋も各地に建設されている)で、御人数百五十人が配備された場所だという。
その時御陣屋を建設された敷地内の井戸がそのまま残っており、今でもこの水を使用している。同二十一日白老出立、道程七里七町で幌別泊まり。ここに蝦夷家が二十軒ある。
ここでは畑作をしているようで、作物を蒔きつけた畑も見える。ここへ來るまでの間に畑作は見られなかった。