2014年4月6日
露寇(ろこう)事件始末(6-20) 荻野鐵人
七月二十二日幌別出立、室蘭泊り、道程五里。蝦夷家は二十二軒見える。
ここも先年わが津軽藩の警衛地で、御人数数百人固めの場所であり、御陣屋は山手の方にあるそうで、その屋敷跡が見える。
ここでは帆立貝の漁事がある。同二十三日は滞在し、同二十四日室蘭出立、有珠会所泊り。
道程は六里半。ここには有珠嶽といって登り一里半ほどの山があり、その山麓に牧場(文化二年〔1805〕、箱館奉行は有珠・虻田地方に蝦夷地では最初の牧場を開いた)があるという。
善光寺という寺があるが、思うにウスケ嶽というので善光寺とつけたのだろうか。
ここも先年津軽藩の警衛地で、御人数百人が駐屯したとき、御陣屋を建設された場所が山手の方に見える。ここに人家(和人家)九軒があり、その下方に続いて蝦夷家三十軒が見え、畑地の開発が行われ、蒔付物も見える。
それから一里ぐらい進むと虻田という所で、会所の造りも相当立派に見え、蝦夷家は三十六軒と見受けた。
七月二十五日有珠出立、道程五里半で礼文華の会所泊り。蝦夷家二十九軒がある。
同二十六日礼文華出立、六里半で長万部泊りとなる。この礼文華からは海岸通行となるので、風雨のさいは大時化となり、通行者のうち命を落とすものが多かった。
人みな難道と唱え、天候を見定めてから通行してきたという。そこで先年津軽家に新道開削が命ぜられ(礼文華山道は、文化元年〔1804〕から三年にわたり、津軽藩が警衛士卒を使役して、延長四里の新道を開削した)、山道を伐開したところ通行が自由となり、これを新道と呼んで、今ではこの道ばかり往来する。海岸道を廻るより遥かに近くなったということである。
同二十七日長万部出立、ここの蝦夷家は二十軒ばかりと見える。八里半で山越内(いま山越、八雲町のうち)泊り。ここまでは蝦夷家がある。ただし、和人家も十軒あり、その下方に蝦夷家十三軒がつづいている。
すなわち、ここは蝦夷地と和人地の境界で、これから松前までの間に蝦夷家はない。ここの蝦夷人は和人と同様で、木綿の着物を着ており、言葉も蝦夷言葉ではない。
和人家の中には荒物屋も見え、店の造作もよろしいように見える。