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2014年4月7日

露寇(ろこう)事件始末(6-21) 荻野鐵人

 同二十八日山越内出立、五里の道程で鷲野木(森町のうち)泊り。ここの人家は十七軒である。
 同二十九日鷲野木出立、八里半で大野村泊り。ここには人家が五十六軒あるという。これから松前城下までの集落には村名がついている。畑作物を蒔付け、旅行者のための宿継所があり、また木綿・油屋・受売酒屋・荒物屋の類、そのほか宿屋などもあるようである。ただし銭湯屋はないので、各自が大きな木津(厚板をもって長方形に造った水槽)に汲み湯して入浴している。
 去る文化三寅年(1806年)から周辺の開発が行われた(大野村周辺は文化元年から大規模な田畑開発が行われた)と、村人は云っている。
 しかし去年松前家がお国替えを命ぜられたので、現在は御天領(幕領)ということである。
 八月朔日大野村出立、五里の道程で箱館へ着いた。大野村から三里のところに亀田村があり、ここに二軒の茶店がある。そこで昼食をとり、それから二里で箱館へ着く。ここから松前城下までの手帳を紛失した。
 八月五日松前御城下。ここの津軽陣屋は柴垣をめぐらしているので、柴垣の陣屋と唱えている。ここに落ちつき、日和待ちの問しばらく滞留した。
 去年の六月、箱館陣屋から急に奥地へ出発したが、その後において松前家はお国替えを命ぜられて新領へ引っ越され、松前城には箱館詰御奉行衆が移られた(箱館奉行は、文化四年九月二十七日、松前城ならびに版籍の引渡しを受けてこれに移り、十月十日松前奉行と改めた)ので、わが津軽家でもそれまで箱館にあった陣屋を引払って松前に移り、松前藩家老松前左膳の家を譲り受けて本陣と定めたが、高台にあって見晴らしの非常によい屋敷である。二陣・三陣も松前藩士の家で、そこへ御人数が配置されている。斎藤勝利も三陣に滞留した。
 八月六日、斜里場所出帆の千歳丸が到着したとの報告があった。そして上乗の大組足軽工藤茂兵衛が上陸して三陣に滞在、天候しだいで青森へ廻航するが、また上乗を勤めるはずである。
 斎藤勝利が帰国した際、松前家から津軽家へ贈られた鷲一羽、駕篭に入れてお預けを命ぜられ、帰国したとき御鷹部屋へ差し出すようにと、御用状を添えてお預けになった。
 ところが明十日、御飛脚船を強いて出船させるからそれで出発するよう命ぜられ、郷夫の者どもに鷲駕篭を持たせ、午前九時ごろ松前表を出船したが、日和もよろしく午後二時すぎ無事三馬屋表へ到着、大慶安堵した。
 三馬屋で鷲駕篭持ちの人夫と、宿継ぎのさい鷲の餌にする小鯛・かれい・かながしらの類の小魚を差し出すよう居鯖(魚屋。ふつうは五十集と書くが、津軽ではこの文字を用いる)どもに申し付け、先触れを直ちに出発させた。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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