2014年4月8日
露寇(ろこう)事件始末(6-22) 荻野鐵人
八月十一日三馬屋出立、鷲駕篭持人・手代とも三人で蟹田町泊りとなった。
同十二日、人夫四人のうち一人に着替え持ちを申し付け、青森町泊りとなった。
同十三日は滞留して、弘前までの先触れを出し、青森の居鯖どもに鮮魚の供出を申し付け、同十四日は浪岡村泊り。
同十五日弘前城下へ入って御鷹部屋へ鷲駕篭をお渡しした。それから頭方のお宅へただいま到着の報告を申し上げ、松前方へも連絡を依頼して、ようやく宿元へ帰ったのである。
八月十六日、青森表へ千歳丸が到着したので、御人数の着替え荷物ならびに御武器の類を弘前へ輸送するよう御用命があり、即日出発して途中高田村で一泊し、同十七日青森に着いた。
上乗の工藤茂兵衛と両人で、御武器の分は封印のまま松前方へ上納し、御人数着替えの分は宿札をつけて宿継ぎにし、郷夫らの荷物は青森伝馬(公用旅行者のために、人馬の継立・休泊などの準備をする所)から受取りを差し出させ、荷物を付け札の村々へ届けるよう申しつけて発送させた。
同二十日(陽暦十月九日)自宅へ帰着した。
斜里場所警固の御人数百人が駐屯していたところへ、翌年五月、御医者中村本川が参着したので合計百二人となったが、以上のうち十三人は、病気のため去年の冬から今年の夏までの間に、宗谷あるいは松前で養生したいとの願いが聞き届けられて出発させた。ほかの七十二人は、去冬十一月二十五日から今年の閏六月十三日までの間に病死した。残る十七人のうち二人は越年者ではない。十五人が越冬駐在して今回帰国したのである。
斜里場所で御陣屋詰合御人数の食料用の魚類を同所の運上家から買い上げると、塩引魚一本につき代価百文ずつであった。蝦夷どもから直接買い上げることは禁止されていたが、内密に生鮭を買い上げたときは一本の代価は一分四文ずつであった。もっとも塩蔵の魚は蝦夷は持っていないのである。
斎藤勝利は二十二歳の年に、松前表へ魯呂者船数十艘乗り廻している様子なので急ぎ弘前を出立せよとの命を受けて、文化四年(1807)五月二十六日津軽を出て、蝦夷地において越年、翌辰年は閏六月があったので、八月十五日、十七カ月目にようやく宿元に帰り着いたのである。
斎藤勝利所持
以上が『松前詰合日記』の全文である。