2014年4月9日
露寇(ろこう)事件始末(6-23) 荻野鐵人
斜里は蝦夷地でも酷寒の場所で、蝦夷人でさえ越冬は避ける極めて条件の悪い土地であった。斎藤勝利はこれを蝦夷より聞いて、以後は斜里は警固地とすべきでないと『松前詰合日記』に書いている。
しかし、ここで、斜里の歴史をふり返ってみると、貞享二年(1685年)に、松前藩は、宗谷場所を開設し、和人とアイヌの交易所とし、寛政二年(1790年)に斜里場所を設置している。
なお、翌寛政三年(1791年)、松前の人、村山伝兵衛は運上差配人として斜里場所の運営を行っている。
従って、斜里場所も宗谷場所ほどではなかったにしても、かなりの歴史を持っていて、全くの未知の世界ではなかった筈である。
又、寛政十年(1798年)、幕府勘定吟味役三橋成方は部下を派遣して、斜里までの北見沿岸を調査した。
寛政十二年(1800年)には、宗谷、斜里、樺太は松前藩の直営となっているが、文化四年(1807年)ロシア船が樺太各地を襲い、知床半島近くに現れるにおよんで、幕府は蝦夷地全島を幕府直轄とした。そして斜里警備のために津軽藩兵百名が斜里に派遣され、殉難事件が起こるに至ったのである。
十六年前から斜里場所滞在者がおり、少なくとも十人内外の人々が運上屋敷で働き、越年を経験した者もいたのである。
にもかかわらず、斜里での越冬の情報が津軽藩兵にまで伝わらず、この不幸な事件が起った。
月別死亡者数では十一月から閏六月にいたる九カ月間に於いて、十二月と一月に断然多数の死亡者を出している。
階級別死亡率は、上級隊員(勘定人・与力・作事受払役・御医者等)、中級隊員(足軽・御持鑓等)、下級隊員(大工・鳶・郷夫等)に分けると、死亡者の比率は上級隊員より中級隊員、中級隊員より下級隊員と著しく増加しており、生存帰国者の比率は上級隊員が中級隊員、下級隊員の二倍である。中級隊員と下級隊員の生存帰国者の比率が余り変わらないのは、中級隊員の引揚前出立者の比率が下級隊員の二倍以上であったためである。これは、中級隊員は引揚前出立の願い出が許可されたのに反し、下級隊員は引揚前出立の許可がとり難かったためであろう。
上級隊員は柾屋根の上長屋(三十六坪)に住み、中級隊員は柾屋根の中長屋(三十坪〉に住み、下級隊員は萱葺き屋根の下長屋(三十坪)に住んだから、下級隊員は寒さにもさいなめられたことであろう。勿論、食糧事情も、死亡率に大きな影響を与えた。