2014年4月10日
露寇(ろこう)事件始末(6-24) 荻野鐵人
足軽斎藤勝利の記した『松前詰合日記』には、幕府からの命令でロシア進攻の防衛として文化4年から5年にかけて斜里で越冬した津軽藩戊兵百余名のうち72人が[浮腫病」で死亡したことが記されている。
浮腫病(水腫病)とはどんな病気でその病因は何であったのであろうか。
斜里詰の医者石井隆仙か藩医中村本川の記載があれば、かなり正確に分かるのであろうが、斎藤勝利は何ら患者の病状は記録していない。幕府によって医者の記録も抹殺されたのかも知れない。
状況から判断すると、水腫病(浮腫病)と呼ばれる病態は、全身の浮腫であろう。とすると、顔面、四肢、とくに下肢、足背、背部の浮腫、さらに、胸水は外観では分からないから、腹水による腹部膨隆が見られたと思われる。
文化5年(1808)の仙台藩の第一次蝦夷出兵に際して、大槻玄沢(1757~1827)は藩命により「寒地病案」を編述して従軍医官の人々に与えて、頻発した「水腫病」の被害を最小限に食止めるべくその予防を企てた。玄沢が従軍医官に贈ったという「寒地病案」は彼の「臥牛医案」なる書に収録されてその一部をなしているが、実は玄沢の著ではなくして門人に「軍中備要方」及び「へイステルの内科書」の[シナウルホイクScorbntus (壊血病)」の項を訳出させたものであった。そしてその用語として、清の世宗時代に用いられた青腿牙疳を使った。
玄沢自身が「水腫病」を観察し、これを記載してその予防法などを論じれば良かった。西洋にはない脚気は蘭学医書「ヘイステルの内科書」には記載されているわけがなく、当時に西洋で問題になっていた壊血病を水腫病と同一視してしまった。