2014年4月18日
露寇(ろこう)事件始末(6-32) 荻野鐵人
米国立保健研究所(NIH)の研究チームが2014年2月4日付のCellMetabolismに発表した結果では、運動すると、「イリシン」と呼ばれるホルモンが出る。余分なエネルギーを皮下脂肪としてため込む細胞に働きかけ、脂肪を燃焼して熱を生み出す細胞に変える。研究チームは、健康な男女10人について、室温を27度から徐々に12度に下げたり、自転車こぎなどの運動をしてもらったりして、体の変化を調べた。27度のときに比べ、身震いshiveringの回数が12度では平均約2倍に増えた。比例してIrisinの分泌量も増え、shiveringが3倍になった人は分泌量が6倍になった。自転車こぎを1時間以上続けた時のirisin増加量は多くの人が5倍以下で、身震いするのと大差はなかった。カロリー消費量も室温が低くなるにつれて増加した。何もしない状態でみた1日当たりに平均消費量は、27度では約1500キロカロリーで、12度では約2240カロリーに増えた。
郷夫たちの酷寒の場所での肉体労働はカロリー消費が著しかったに違いない。さらにビタミンB1消費も激しかった。脚気心は学生では運動部、一般人では肉体労働者に多いといわれている。脚気の発生因子は白米食、激しい運動、労働による著しいエネルギー消費が指摘されていて、アルコール常用者にも発症する。郷夫たちも寒さしのぎに酒も飲んでいたろう。
斜里事件の二年前の文化二年(1805)の春、択捉島に渡った津軽藩士山崎半蔵は「万里堂蝦夷日記抜書」と題する日記のなかで、最上徳内が酷寒の風土と本症とは何ら密接な関係を有せず、寒さを凌ぐため長時間炭火で暖を取るため、炭火から発生する「火毒」が人体に作用して「腫病」が起こると説いたので、半蔵は部下八名を徳内に預け、実際に実験したところ、翌年までに三名は死亡し、二名は罹患して、無事なものわずか三名であったと記している。斜里の津軽藩守備隊の隊長であった最上徳内は水腫病をすでに知っていたことは明らかである。自分だけは鯨油を米にかけて食べていたといわれているが、「火毒」でないことが分かり、栄養のためと知ってのことか。それだけ知っていながら、部下を浮腫病から守れないばかりか、部下を途中で出立帰国させず、そのくせ自分は樺太に行くと嘘までついて宗谷へ行った行動の不可解さは、幕府の隠密なるが故と考えても矛盾しない。