2014年4月23日
露寇(ろこう)事件始末(6-35) 荻野鐵人
2) 服装
服装も毛皮などもなく、袷を重ねた程度では、体温を相当に奪われたであろう。屋外での仕事がある郷夫たちは特にひどく、凍傷もあったであろう。
公儀から配られた加味平胃散が病状には何ら効果が無かったことはあきらかである。
十月七日、郷夫の大鰐村富蔵の病気が記載された最初の発病である。七月二十九日に斜里に到着してから二ヶ月以上経っている。函館まで下って養生したいとの願い出をそれほどの難病とも思えぬということで却下しているが、このとき全員、ことに下長屋の郷夫たちの健康のチェックをすべきであった。
松前生れで弘前の古郡道作方で六、七年修行した斜里詰の医者石井隆仙は、弘前でも、松前でも山などで凍傷にかかった者を見ていたであろうし、経験上食物もどうあれば良いか分かっていても不思議はない。
寒冷地での十分な知識を持っていたであろう最上徳内は自分達の住居を含めて、これでは越冬は難しいと、なぜ判断をくだせなかったか。
飛脚を出して必要のものを国元へ催促したのであろうか。催促したのは薬だけか。
得内が途中紋別から氷海を渡って樺太島に行くなどと虚言を吐く理由は何か。鍋釜・小道具・食糧・塩味噌から燃料の果てまでおよそ六、七日間の用意を持ち出す方便か、蝦夷人夫どもも連れ出している。これでは残ったものは不自由したであろう。
また全員の退去をここで決断しても良かった。無責任な脱出といわれても仕方ない。幕府の間者であった過去から、津軽藩士らを昧方とは思っていない。むしろ彼らの憎しみを警戒していたことのあらわれであろうか。
十一月十四日(陽暦十二月十二日)日に日に大海一面に氷が張りだしたので一同が驚き、会所の下役どもに問い合わせたところ、去年も今ごろはこうなったと答えている。昨年での斜里の越冬の体験は生かされなかったのか。海が凍れば外国船の脅威は無くなるはずである。四月二日(陽暦四月二十七日)になって大海の氷が解けはじめるまで全員斜里を引き上げて他所に移り、再び戻っても良いのではないか。
公儀から配られた加味平胃散が病状には何ら効果が無かったことはあきらかである。
十一月二十三、四日ころ、郷夫の大鰐村富蔵が再度帰国を願い出ても詰合医者石井隆仙にお尋ねのうえ、公儀衆からもお薬を下されるので、雪中の帰国は難儀であろうから、当地において養生するように言われている。十一月中旬に大部分が浮腫病になった時点での医者と最上徳内の判断はどうだったのか。このままでは下の者から順に全員が病死することを考えて、雪中での移動は困難とはいえ、斜里から東海岸へ向かって七里ほど離れた暖かい屈斜路湖周辺の温泉地帯か、紋別、宗谷へ移動すべきであった。十一月二十五日(陽暦十二月二十三日)大鰐村富蔵が死亡した時点でも遅くは無かった。
十二月十日ころからは浮腫病のため働く者がいなくなり、毎日の飯炊き、水汲み、薪作りもさしつかえる状態となっている。
十二月十二日になってはじめて、諸手足軽角田、鳶の嵯峨八、大工の兵七宗谷へ引っ越して養生したいとの願いが聞届けられている。これまでの下長屋の者からではなく、足軽からの申出なのでむげに却下もできなかったのか。付添いの御持鑓宮川定吉はこの時点での移動で助かっている。
斜里詰合公儀金井泉蔵の病死は果たして浮腫病であったのか。最上徳内に次ぐ最上級の立場の者が栄養や住居の問題から浮腫病にかかったとすれば一大事である。すみやかに対処すべきではなかったのか。そのまま打ち捨てておき正月の準備をしているとも思いにくい。他の者をも含めて葬儀はしなくても良いのか。あるいはうがった見方をすれば、今後の方針に関して医者を含めて上層部でも意見が対立したため、殺されたなどということもあっても不思議はない。
二月六日公儀役人岩間哲蔵が宗谷から斜里へ転勤してきたのは最上徳内の要請か、金井泉蔵の代わりを呼んではなかったのか。
斎藤勝利は、この記録を後年斜里で越冬するものへ参考にしてもらおうと書きはじめたが、その悲惨な最後と公儀などの対応の悪さと、帰国してからの国元での処遇に関しても不満でもあり、だれにも見せないでおこうと思ったに違いない。