2014年4月25日
露寇(ろこう)事件始末(6-36) 荻野鐵人
日本における脚気の歴史
『日本書紀』と『続日本書紀』に脚気と同じ症状が記載されており、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生していた。
江戸時代のごく初期に、すでに上層の武士たちは白米食をはじめており、家光の将軍時代(1623~51)には、武士階級に広く白米食が普及していた。
元禄(1688~)以前に、すでに米といえば白米を指すようになっていた。他方、都市町人層にも元禄時代以前に、相当広く白米食が普及していた。この普及が、上は将軍から下は町人に至るまで、あまねく脚気を発症させる主因となった。
ただ農民においては、事態は全く異なっていた。水呑み百姓はいうに及ばず、中下民なども依然として哀れな食生活を続けていた。そのため、いったん不作に見舞われると、忽ち餓死の危険にさらされた。しかし餓死することはあっても、雑穀蔬菜という粗食のお蔭で、これら農民には脚気はほとんど発症しなかった(動物実験でも飢餓ではビタミンB1欠乏症はおきない)。明治においても同様、農村において脚気は流行には至らなかった。
室町時代には漬物といえば塩漬の漬物(一部糠漬、味噌漬)が、用いられていたのが、家光時代以後、糠の大量生産(すなわち白米の大量生産)に伴い、糠が糠味噌汁や糠食として食用に供されるようになった。しかし、食生活の向上につれ、食用としての糠の価値は低下し、飢饉時や特殊な場合を除き糠食は行われなくなった。まだ糠味噌汁も享保(1716~36)以後は、一般には用いられなくなったが、糠の一大利用法として糠漬が創作され江戸時代後期には糠味噌漬があまねく行われるようになった。方法も今日と何ら変わるところがなかった。
元禄年間に脚気は一般の武士にも発生し、やがて裕福な地方の上流層、また文化・文政には、白米から栄養の多くを摂取していた江戸などの町人にも大流行した。領地では貧しく白米を食することのできなかった地方の武士も、江戸勤番では体面上白米を主食としたため、江戸在住期間が長引くとこの病に罹る例が多かった。
明治から大正期以降、(ビタミンB1を含まない)精米された白米が普及するとともに、安価な移入米が増加し、当時、白飯は庶民の間で高級感のある主食として歓迎されたため、ますます副食を充分に摂取しなかったことで多くの患者を出し、結核とならぶ二大国民病といわれた。歴史上の有名脚気死亡者としては豊臣秀吉(尿毒症説などもあり確定した死因ではない)桜町天皇、徳川家定、徳川家茂、和宮、小松帯刀などがあげられる。