2014年4月27日
露寇(ろこう)事件始末(6-37) 荻野鐵人
脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。脚気の原因がわからなかった理由として、いろいろな症状があるうえに病気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこと、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。
明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」は、たちまち医界で受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。陸軍の医官はドイツ学派なので、当初、脚気の原因を細菌であると考えた。その後、原因はともかく、麦食によって脚気を防げそうだと言うことが判明し始めたのが1890年前後である。ただし、この時点では根拠の怪しい新説の一つにすぎない。麦食の立場がそれなりに確かになるのは1900年前後である。つまり日露戦争直前で、だからこそ一部の部隊では、陸軍主流派の意見を無視して麦食を導入した。だが、この段階で陸軍全体が麦食を導入できたかと言えば、不可能ではないものの困難だった。それは補給の体系に、膨大な量の麦と言う別項目を追加しなければならないからである。人数が少ない海軍はわりと気軽に補給品目を変えられるが、大人数を外地に展開させる陸軍の場合、新品目を調達するのも、現地への輸送や各部隊への配給を管理するのも大変であった。(全兵士分の麦を買い付ける組織を立ち上げるだけでも大事業)なので、陸軍の補給担当者達が麦食の導入に難色を示した。また当時、「白米が食べられる」というのは陸軍の人気の一つだった。軍と言う組織にとって士気は重大問題であるから、よほど強力な要因がなければ、士気の面で不利になる可能性のある改革は行なわない。
ビタミンが発見されて脚気の原因が判明するのは日露戦争後の話で、「麦食を好ましいとは思えない」理由が存在した以上、その導入に慎重になっていた。