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2014年4月30日

露寇(ろこう)事件始末(6-38) 荻野鐵人

 南極大陸に高木岬と命名された岬がある。これはエイクマン、フンクなどビタミン研究に多大な功績のあった人を記念して命名された地名の一つであり、高木兼寛の業績が世界で高い評価を受けていることを示すものである。
 ビタミンという概念がなかった時代に、その欠乏症の治療あるいは予防が意識的に行われたのはJ. Lindによる英国海軍における1753年からのオレンジジュースによる壊血病の予防といわれている。
 海軍軍医の高木兼寛は臨床主体のイギリス医学を学んだが、軍艦によって脚気の発生に差があること、また患者が下士官以下の兵員に多く、士官に少ないことに気づいた。さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはたんぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱく質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。1889年(明治22年))。同年2月3日、海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予防試験をかねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港した。乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づいた医療」Evidence Based Medicineを特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革をすすめた結果、海軍の脚気新患者数、発生率、及び死亡数が1883年(明治16年)1,236人、23.1%、49人、1884年(明治17年)718人、12.7%、8人、1885年(明治18年)41人、0.6%、0人、以降1%未満と激減した。この航海実験は日本の疫学研究のはしりであり、それゆえ高木は日本の疫学の父とも呼ばれる。 ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌1885年(明治18年)からパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。
 1885年(明治18年)高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。だが高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象をあたえた。そのため、東京大学医学部を筆頭に、次々に批判され、一ヶ月後には、同誌に村田豊作(東京大学生理学助手)の反論が掲載され、とくに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は、机上の空論であることが実証された。
 高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回にわたって公表したものの、1886年(明治19年)2月の公表を最後に学理的に反証しないまま沈黙した。学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の脚気患者が発生しただけであり、陸軍の脚気惨害と対照的であった。その後、東京大学医学部卒の本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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