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2014年5月1日

露寇(ろこう)事件始末(6-39) 荻野鐵人

 脚気患者の増加をうけて海軍省では、1921年(大正10年)に「兵食研究調査委員会」を設置し、1930年(昭和5年)まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない麦飯で麦の比率をあげることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。1927年(昭和2年)から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は1933年(昭和8年)9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。しかし、胚芽米をつくる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が多発する夏に供給するのが困難であったことから、現場で研究の成果が十分にえられず、脚気患者数は、1928年(昭和3年)1,153人、日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下まわることがなく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)は3,079人(うち入院605人)であった)。
 海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用した。ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(ちゅうとく)(陸軍省医務局長)が米飯を過信し副食を軽視した。戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達と補給に苦しんだ。黄海海戦後、1894年(明治27年)10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気患者がでると、経験的に夏の脚気多発が知られているなか、事態を憂慮した土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した。しかし、結局のところ麦飯は給与されなかった。その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したとされる。台湾平定(乙未戦争)では、高温という脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食が貧弱であったため、脚気が流行した。しかも、1895年の『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に掲載されていた石黒忠悳の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難である」を批判し、さらに同紙には、斎藤有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた。しかし、「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」という石黒忠悳の意見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を変えてはならないとした。そうした結果、土岐頼徳が台湾に着任し、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮まる兆候がなかった。だが、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐頼徳は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入された(軍法会議などで公になると、石黒忠悳の統率責任と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。このように陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒忠悳は、長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、明確な形で責任をとることがなく、陸軍軍医の人事権をもつトップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部に隠然たる影響力をもっていた。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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