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2014年5月2日

露寇(ろこう)事件始末(6-40) 荻野鐵人

 トップの陸軍省医務局長が小池正直にかわっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃発し、第5師団が派遣された。そのときも、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人の脚気患者がでた。前田政四郎は、『軍医学会雑誌』に投稿し、米飯が脚気の原因という認識を示した。
 日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。「麦は虫がつきやすい、変敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」、白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情があった。
 しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増えはじめ、気温の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦飯が給与され、翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。
 また国内で、脚気患者の大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、小池正直(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医トップの医務局長を辞任するまで、陸軍批判の投稿がつづいた。陸軍省編『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数999,868人のうち、戦死46.423人(4.6%)、戦傷153,623人(15.4%)、戦地入院251,185人(25.1%)で、戦地入院のうち、脚気が110,751人(44.1%)を占めており、在隊の脚気患者140,931人をあわせると、戦地で25万人強の脚気患者が発生した(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率をみると、「軍夫」とよばれていた補助輸卒の数値がいちじるしく高く、患者数も補助輸卒は多く、過酷な条件のもと任務についていた)。入院脚気患者のうち、27,468人が死亡したと見られる。


  • 共立荻野病院             院長 荻野鐵人
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