2014年5月4日
露寇(ろこう)事件始末(6-41) 荻野鐵人
脚気という病は、古くから知られており、それも米食地帯に限られて見られることから、西洋では風土病とみなされていた。脚気は、そのため、東南アジアの言葉であるベリベリとして西洋社会に紹介された。多くの西洋人が、その原因究明のため植民地であるベリベリ発生国に出かけて研究に従事した。1906年にオランダのEijkmanは当時脚気の流行国であったインドネシアのジャカルタに赴任中に研究所の庭で白米の残飯を啄(ついば)んでいるニワトリに起立不能、歩行困難など末梢性神経炎の症状が起こるのを観察し、米糠を与えると治癒することを知った。またこれにヒントを得て、囚人に玄米を食べさせたところ白米食に比べて脚気の発生率が2.8%から0.09%に激減したことを報告した。当初、彼は米の貯蔵中に繁殖した細菌の毒素による中毒と考え、米糠には毒素に対する中和成分が含まれていると主張したが、のちに門下のGrijinsの意見を入れて米糠に予防因子protective factorが含まれていると訂正した。Eijkmanは1929年に抗神経炎ビタミン発見の功によりイギリスのHopkinsとともにノーベル生理・医学賞を受賞している。
陸軍省医務局長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒忠悳(ちゅうとく)野戦衛生長官に同調)の発案で、臨時脚気病調査会が開かれ、陸軍大臣の監督する国家機関として多額の陸軍費がつぎこまれた。1908年(明治41年)、森林太郎(鴎外)と青山胤通東京帝国大学医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長の3人は、来日中の世界的な細菌学者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)から東南アジアで流行するベリベリを研究することを助言された。beriberiのberiはスリランカで「弱い」あるいは「できない」を意味するシンハラ語から派生したと考えられている。
都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝染病研究所)の3委員によってさっそくバタビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった。
帰国後栄養欠乏説に転換した都築は、1911年(明治44年)、東京医学会総会で報告した内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するとともに、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した卓越した業績であった。さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないものだった。