2014年5月12日
akira's view 入山映ブログ 騒音禍
駅のホームでは「電車が来る」「白線まで下がれ」「入り口に固まらず中の方に進め」「駆け込み乗車は危険だ」などなどひっきりなしに騒がしい。新幹線のホームに人を出迎えて五分もいれば頭が痛くなること請け合いというほどのものである。片時も休まずなにかをしゃべっていることがサービスであると錯覚しているかのごとし。「蟻走る走らねば世の終わりらし」などという有名な一句を思い出したりするくらいだ。うがった見方をする人によれば、あれをやめさせたらその分だけ雇用が減少するから労働組合が反対するのではないか、とか。まさか、ね。
量販店の前では行き交う人に向かって客引きの喧しさ。街宣車の流すけたたましい軍歌。住宅地を傍若無人に走る「電子製品を無料でお引き取り致します。」
枚挙に暇のないこの種災厄の極め付きは音楽会。ひと時の至福の時を求めて、安くもない入場料を払って会場に入るや、「プログラムはこちら」「軽食喫茶はあちら」「本日プログラムのCD販売中」さながらに縁日の呼び込みである。
かつて日本人は竹の葉の音に耳を傾け、松の葉のざわめきを愛した。一体その感性はどこにいっていしまったのだろうか、と思う。もちろんある日突然にメタボになる訳ではない。徐々に、徐々に感性が浸食されたというのが正解だろう。思い起こせば石原現都知事が環境庁長官だった頃、ゴミ収集車のオルゴール音に異議を唱えた。その時、マスコミを筆頭に世論なるものは嘲笑をもって応えた。もっと大事なことがあるだろうという訳だ。われわれはいまその不明を恥じなければなるまい。
さて、どうしましょうか。遅まきながら景観保護についてはいささかの進歩が見られている。騒音についても多少の進歩なしとはしないが、官僚統制、国の干与の増大の方向でしか解決できないというのがこれまた悩みのタネだ。
市場原理のしからしむる所、うるさい業者には廃品を出さない、買わない、良くないよ、と声を上げる、といった迂遠な方法しかないのかもしれない。でも、もともと民主主義は迂遠な方法論を好んだのではないか。
2007年 12月 19日