2014年7月1日
人間と自然-1-2 荻野彰久・荻野鐵人
現代医学は出来るだけのことを妻に尽してくれた。それでもなお妻は死んでいく、現に妻は刹那(せつな)々々死につつある――と老人は考えたのである。これはとりもなおさず人間の「寿命」であり、「運命」である。その「寿命」、その「運命」をこの老人は漠然と「自然」と云ったのかも知れない。
出来るだけのことは僕もした。――と老人は思っている。妻が病気になるとこうして直ぐ入院もさせた。医者は診て呉れて首をかしげた。
「助からない――死ぬ」という意味ならば、それは所謂(いわゆる)「寿命」とも云えるし「運命」とも云える。ではその「寿命」の向うの端を掴んでいるものは何か? 具体的にはそれは人間でもなければ悪魔でもない。キリストでも仏でも勿論ない。偶然であり運命なのである。で、そういう偶然、運命をどうやらこの老人は「神」とも考えるが「自然」とも考えているらしかった。だから愛している妻の首を、いや愛すればこそ妻の首を、彼自身の手で絞(し)めて、殺してやらなければ(いまに――)自然が(だから運命が)走って来て妻の命をもぎとっていく――と老人は考えているのである。
〈余談であるが後にこれが裁判に附せられたとき、「――だから、われわれ医者の言動は、家人への影響をも考え合わせて当らなければいけないのですが、何しろ助手は未だ若かったものですから」と、内科の矢内原教授は前置して、「あれは非定型性肺炎で、現代医学では必ずしも助からない病気ではありませんでした」と証言しておられた。
しかも老人は、そういう自然が妻の命を奪いに来るのは、あと十分か二十分に迫っている、と考えていたのである。
老人が妻の首へ二度目に手をやったとき、ドアが開いて受持医が入って来た。振り返った老人は手を妻の首から離す。
「注射を致します」
受持医は、看護婦の渡すテラプチックを一本筋肉内へ注射し、軽く老人に頭を下げて、出ていく。看護婦が次いで出ていく。