2014年7月2日
人間と自然-2-1 荻野彰久・荻野鐵人
「うん、いいことだ、若いうちは」と老人は病室から出ていく受持医の後姿に言った。助けようと努力している医者に老人は感謝していたということは、自然が自ら生きんがために人間に戦争を仕向けて来たことに他ならない。例えば癌(がん)で人間が骨にされる場合なら、癌細胞という自然が人間に、結核で赤い血を口から吐(は)いて仆(たお)れる場面ならば結核菌という自然が人間に、そして例え老衰現象の涯(はて)に眼を閉じる姿ですら、老衰というひょろ長い自然が、闘いをしむけて来て、人間を仆(たお)したことを意味する。――だから疾病とは不可視の闇に自然が人間の肉躰にたくらんできた包囲攻撃だ――と老人は考えたのである。
だから、この老人の言葉を借りて云うならば、病気を癒(いや)そうとする医者の仕事は、そういう黒い自然に対する人間の叡智――知的反抗を示すことだ。だから老人は十五分毎に心臓の注射をしに入ってくる若い受持医の姿を見て、「いいことだ、若いうちは」と満足げに微笑したのである。が、自然は人間の叡智――現代医学を頑強に抵抗し排除し、妻の命をいまにもさらっていこうとするのだ。――
老人の貧しい想像のなかには、死にかかっている妻の枕もとには歌舞伎役者のうしろについて、着せたり脱がせたりする黒い衣をまとった黒子のような自然が、意地悪い眼付で、「さあ!さあ!」と命の返還を迫っている光景が展開しているのかも知れない。――そういう黒い自然に渡してなるものか。敵に渡す位ならいっそこの僕の手で! と老人は手を握りしめながら、又這入って来た看護婦や受持医が、はやく病室から出ていくのを落ちつかぬ気持で待っていた。が、受持医は却々出て行かない。心電図を録(と)り血圧を測り白血球を計(はか)っている。
その間に老人は、勝手に自分の想念の部屋の扉を開ける――この人生を生きる価値があるかどうかを老人は考えているのではなかった。すでに生活してしまった時間について〈人間の一生は――〉と考えはじめたのである。
「人間の一生は――」と老人は痛い事をされても識(し)らずにいる妻の顔を見ながら考える。この人生を焦りもし野心も燃やした。そして歓びもし悲しみもした。だがそれを僕は皆自分の自由意志でやって来たとばかり思っていた。が、こうして死んでいく妻を前にして考えて見ると、妻の運命も僕の運命も生れ落ちる時からちゃんと定まっていたのだ――死という刑罰を生れ落ちる時から背負わされて歩かされる過程、それが人間の一生ではないか………と老人は考えつづける。