2014年7月4日
人間と自然-3-1 荻野彰久・荻野鐵人
――その夜を彼らはTorquay(トーキー)のホテルで過すことになっていた。それに向う道中の出来事である。白いポタージュを流したような霧があたり一面にたちこめていた。村の入口の森に車がさしかかったとき、霧の中から不意に橙色の電燈を持った男が車の前に立って手を拡げる。急ブレーキで運転手が車を停めると「降りて下さい!」と男はいう。遠いところからは巡査のように映ったがどこかの門衛風のユニフォームを着た男であった。
「どうしたのですか?」ととまどった彼は妻の手をとって降りながら訊ねるのであったが、
「人間が殺されたのです」と男は焦立しげにいう。
「人間が?」と思わず訊くと、
「馬が人間を殺したのですよ!」と男はさらに表情を硬張らせていう。
「あのなかに殺された人がいるのかしら?」と、妻は東手の人(ひと)集(たか)りのしている方を眺めていた。
運転手と男と交わしている会話の模様では、牛乳配達用の馬が通りかかりのメス馬を見て性的衝動にかられ、つながれていた石柱を倒し、そのとき人間が下敷にされて死んだのだというのであった。が、オス馬だけを殺すべきかメスオス両方とも殺すべきか意見が対立しているらしかった。
「鉄砲は未だか!」と頭の禿(は)げた赭(あか)ら顔の男がオス馬を睨(にら)みつけて怒鳴っている。すると死人を囲んでいた人々の顔がいっせいにこちらの、殺すといっているオス馬の方へ向く。
そのとき人垣のこわれた一角から仆(たお)れて血にまみれた男の足が見えた。怖がっている妻をよそに彼は仆れている男の傍へ行ってみた。仆れているのは馬丁風の男で頭から右肩へ石の柱が倒れて来てそのまま男を押えつけている。致命傷は左側の頭らしく頭蓋骨が潰(つぶ)れて血をふいていた。男は死んでいたが手の指がローソクのように白く見えた。
「コイツはどうする?」鉄砲を持って走って来た男が西の方につながれているメス馬を指さして云う。
鉄砲を持った男は死人の上から石柱をおろしていた。
頭にハンチングをのせゴルフズボンを穿いた日焼けした顔の、首の短い男が股を開いてマドロスパイプを咥(くわ)えたまま、彼と妻の居る方へ斜に上半身を曲げるようにしながら、
「どうです。お解(わか)りになったでしよう」と小声で云う。
「え?」と彼が妻をかくすようにしながらマドロス男に顔を向けた。すると、「あの棒杭(ぼうぐい)ですよ!」と男はマドロスを口から離して顎(あご)でオス馬の腹の下を指していう。
彼は馬の腹の下を見た。が、オス馬の腹の下は霧に濡れて黒く光っているアスファルト路面だ。棒杭などどこにも見受けられなかつた。
「立っている大きい杭(くい)ん棒(ぼう)ですよ!」男はまた云ってツッツッとオス馬の傍へ歩いてくる。
「黒いこの棒杭が見えませんか! 人間を殺したのはこの大きいペニスだとワシは云っているのですよ!」
男は手を入れて馬の腹の下からつかむようにしながら云う。この男の下品な言動を、女を連れている若い自分に冗談をいっているのかも知れぬと、彼は男の顔を睨(にら)みつけていた。が、男は動物に対する例の感傷主義から馬を殺すについての何か意見があるらしく、「助命(じょめい)歎願(たんがん)」の真剣な表情がうかがわれる。男は彼をどうかして与党に引き入れたいらしかった。
「この馬があのメスの背中へ乗っていたのです! そのままにしておきゃあよかったのです。それを無理にひき離したからいけなかったのです。ソンナ、アンタ馬ばかり責めないで人間は自分の気持を考えりゃ解ることです。こんなことはソンナ、アンタ、中途半端じゃ、ネ、そうじゃありませんか。おまけにですよ。相手は理性もなにもない動物です!」
男は自分の意見は公平かどうか聴いてみてくれと付け加え、
「中途で引きはなされたオスは、気が狂いそうになるでしょう。石の柱だって何だって倒しますよ! だからあの男は自分の馬に殺されたのです! ソレをアンタ、うち殺すなんて! Charles Darwinをひきあいに出さなくても、動物だってアンタ、こんな感情は人間と同じだ。われわれは動物を憎んではいけない。このドス黒い性器を憎むべきだ! どうですか御意見は?」
と男は又何か愬(うったえ)たい風だったが、其の時、突然ドーンと銃声がしたと思う間もなく、眼の前で褐色のオス馬がバッタリ仆れた。続いて左手の方の霧の中で銃声が聴えた。メス馬が殺されたらしかった。