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2014年7月8日

人間と自然-4 荻野彰久・荻野鐵人

変転に富んだその夜を回想しながら、老人はゆっくり首をあげ、瞑(つむ)っていた眼を明けてみた。
受持医は又坐っている。注射を続けていた。アンプルカッターでがりがりアンプルを廻して切り、注射器につめて病人の腕に射している。ビタカンファー、テラプチック、アンナカ、ネオフィリン、ジギタリス等の入っている小箱を右側に腕時計を左側に置いて注射を続けている。注射を射しては脈をみて、脈をみては注射を射している。
〈困ったことだ〉老人は病人を越して受持医を背後から見て思う。あんなことをしているうちに、妻が死んでしまっては、妻の命は「自然」に奪われてしまう。それじゃあ、折角(せっかく)の私の「理性的反抗」も、水の泡と消える。困ったことだ。何時もなら看護婦がちょこちょこ受持医を呼びに来る。が、今夜は他には重症患者もないのか呼びにも来ない。何とかして妻の命は、この私の手で終らせてやりたいものだ。この私の手!と老人は布を被せて暗くしてある深夜の病室の光に自分の右手を眺めながら思う。右手の親指と人差指を伸して、それで妻の首を絞めようと幾度もまげたり伸ばしたりしている。老人は肩越しに受持医の方を眺める。受持医の起って行く様子は見受けられない。受持医はタバコを出した。マッチを擦っている。受持医はねばりそうだ――と老人は判断したので自分もポケットからタバコを出した。口にくわえて火をつけた。しばらく喫っているかと思うと、指に挾んだまま眼を閉じた。例の自然のなかでの人間を追求しているのである――。

「わたくしBabyが欲しいわ」と或夜bedへもぐり込みながら、妻がいった。彼は何時かのPanty騒ぎの夜を思い出し〈あんな乙女が〉と一寸(ちょっと)愕(おどろ)くのだった。しばらくして二人は眠りに陥ちていったが、手洗いから戻って来た妻は、ふざけて突然彼の鼻を摘みながら、
「これは女の話ですけどね」と語り出す。彼は眠りに傾いていたので毛布を被ったまま黙っていた。「わたくし一週間ばかりホームシックにかかったみたいでめそめそしていたでしょう。あなたにも反抗的になったりして」妻は幾分(いくぶん)詫(わ)びる表情を浮べると続けた。「そうしましたらね、わたし、今夜からちゃあんと、Mになりましたわ」
つりこまれて彼は妻にいった。
「精子、卵子の新しい合躰を子宮内に着床させるため、子宮の古い部分の内粘膜をひき裂く暴力――それが月経という現象なのだよ」
「暴力?」妻は愕いたように表情をこわばらせて訊(き)く。
「じゃ、意志といってもいい」彼は毛布から顔だけ出していった。すると彼女は首を傾げて、
「意志? 誰の?」と訊く。
「暴力さ、君のいう『神さま』ぼくのいう『自然』の意志さ!」彼女は黙ってしまう。彼はいった。
「だから女は、月経のとき腹や腰が痛むのだよ」
彼女は黙って聴いていたが、しばらくしていうのだった。
「月経前の一週間は苛立たしく不安で半病人、最中の一週間は本当の病人、終っての一週間は何か変な気持でこれも人間としては一種の半病人――」と彼女はいい、そのまま眠ってしまったかと思っていると、また時間をはさんで、ゆっくりとした調子になり、一種の哀愁をこめた音声でいった。
「――女って哀しいものなのね――」
返事のしようがないので黙っていた、
「――ですからアナタ、あまりわたしを怒ってはいけませんよ」妻は目で笑った。
初夜、Pantyを下げさせなかった一人の乙女が、こんな月経の話まで良人にするようになったのか。Christmasに殺そうと飼育されていた七面鳥のように、「自然」に飼育されていた乙女はいつの間にか成熟していたのだった。………〈Christmasが来たのだ。眼の前に横たわっている妻には、もうChristmasが来たのだ〉老人の感覚のなかのChristmas treeの上には雪すら降っていた。裸にされ料理されようとしている妻の軀が、俎板(まないた)の上に横たえられているのだった。
〈女は哀(かな)しいものなのね〉といった妻の言葉を老人は思い出し、俎上(そじょう)の妻を、遠い自然を眺める心の姿勢でながめるのだった。



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